京都の平熱 哲学者の都市案内

京都の平熱  哲学者の都市案内

京都の平熱 哲学者の都市案内

臨床看護2013年4月号 ほんのひととき 掲載
“古い町にあっていまの郊外のニュータウンにないものが三つある。一つは大木、一つは宗教施設、いま一つは場末だ。この三つには共通するものがある。世界が口を空けている場だということだ。・・・京都という街には、こうした世界が口を空けているところ、まだまだたっぷりある。ドラマで描かれるよりはるかに、形而上学的に妖しい街なのである”(本書より)

私は学生時代から、京都を旅することが好きです。学会があるときにはその合い間に、あるいは連休を利用して年1回は、京都の町をぶらぶらする時間を作っています。以前、この欄でも紹介した『羊の歌』(加藤周一著)、『活動写真の女』(浅田次郎著)、『京都夢幻記』(杉本秀太郎著)、『京都うた紀行 近現代の歌枕を訪ねて』(永田和宏河野裕子共著)などを繰り返して読んでは、限られた時間のなかで自分なりにお気に入りの場所を見つけ出してきました。欲張って古刹・名跡を一日に数箇所廻るよりも、ゆっくり京都の町を散策しながら、友人から教えてもらった美味しいお店でのんびりする時間を大切にするようになりました。
今年はまだ初詣の賑わいもある1月中旬、関東では大雪だった日、京都市内では雨で、比叡山の山頂が雪化粧した時期に旅してきました。
今回の旅の案内書が本書『京都の平熱』です。著者は大阪大学学長だった鷲田清一先生で、いままでもこの欄で臨床哲学を提唱した『聴くことのちから』などの本を紹介しました。
“昼の剥きだしの街ではなく、夜の化粧した街でもなくて、黄昏どき、視界がぼやけ、ふだんは気づかれない都市の両義性の表情が、わずかな時間、くっきりと姿を現す。ふだんは見えない感覚、形をなさない感覚が一斉にうごめきだす。その時間帯に京都をぶらぶら歩くのが、たぶんいちばんおつだとおもう”(本書より)
京都市バス「206番」の路線に沿って、鷲田先生が生まれ育ちそして学んだ京都の学校・大学の思い出を随所にちりばめた、<哲学者の都市案内>で3年前に刊行されていました。拝観料をとる寺院の案内は一切なく、「はじめて、じぶんが生まれ育った街についてまとまった文章を書くことになった。身にしみこんだ記憶をさぐるようにして」とあとがきにあるように一般の観光案内にはない意外性に満ちた内容がつめこまれています。
さらに本書の大きな魅力は、難しい言葉だけでなく、美味しい庶民料理のお店(ラーメン、べた焼き、喫茶店、格安の呑み屋などなど)の情報を随所にまじえながら、街の表情を写真つきで紹介してくれるところにあります。
“京都はニューヨークと似ている。通りの名前が、である”という一節からは、まるで私自身が初めてニューヨークのマンハッタンを訪れたときような感覚がふっとわいてきました。つい「古都」というイメージにとらわれがちですが、ご存知のように京都は先進性にも満ちた産業都市でもあります。
“人体を精密に測定したうえで複写する京都の計測文化・技術の背景には、簾、扇子、仏壇、金箔加工、象嵌、表装、襖張り、染めと織り、仏像の修理などの精密な職人文化が、さらには現代の京都を引っ張っているハイテク産業、計量機器や精密機械(京セラ、オムロン村田製作所)、パソコン・ゲームの開発(任天堂)などの精密技術が、ベースとしてある”
鷲田先生は21世紀の京都基本構想会議のとりまとめ役も勤めていたそうで、その内容を平易な次のような言葉でまとめられました。日常臨床の場にもつながる言葉だと思います。
“京都基本構想では、あえて京都人がこれまで「得意わざ」とひそかに自負してきたものを5つ列挙し、あらためてそれらを再確認しようということになった。その5つは<めきき> 本物を見抜く批評眼、<たくみ> ものづくりの精緻な技巧、<きわめ> 何ごとも極限にまで研ぎ澄ますこと、<こころみ> 冒険的な進取の精神、<もてなし> 来訪者を温かく迎える心、<しまつ> 節度と倹約を旨とするくらしの態度である”(本書より)