アメリカの61の風景

アメリカの61の風景

アメリカの61の風景

先月、新聞の訃報欄で詩人の長田弘さんが逝去されたという記事を読みました。
長田さんの詩集・エッセイを始めて読んだのは、約30年前、新聞の日曜文化欄で長田さんが出身地の福島の風景を描いた記事を読んで以来でした。ちょうど私はアメリカ留学から帰国してから、日本語の本に飢えていたときで、さりげない言葉の中に癒しを感じる文章に惹かれました。
「みえててはいるが誰れもみていないものをみえるようにするのが、詩だ」という長田さんの詩集『記憶のつくり方』を読んでから、休日の朝や、旅先で繰り返し読んだことを思い出します。
「一冊の本がみずからその行間にひそめるのは、その今という時間のもつ奥ふかい魅惑です。読書中という見えない札を、心のドアに掛けて、思うさま一人の私の今という時間を深くしてゆけるのは、おそらく、一人の私にとってもっとものぞましい読書のあり方です」(『すべてきみに宛てた手紙 晶文社刊 2001年)

年に1回、あるいは2年に1回は新しい詩集や本がでることを楽しみしていました。
旅を題材した、『アメリカの61の風景』の書評を再掲して長田さんを偲びたいと思います。
合掌

臨床看護2005年3月号 ほんのひととき 掲載

“幸福なんて,ごくささやかなものだ。幸福は,大きな空しさを真ん前にした,ささやかな充足にすぎない。(中略)

 はるか昔,ローマの賢者の遺した自省の言葉を思いだす。「普遍的な時を記憶せよ,そのごく短い,ほんの一瞬間がきみに割り当てられているのだから」とマルクス・アウレリウスは言った。(中略)

 そのときわたしは,人生で手にしうるおそらくはいちばんきれいな時間のなかを走っていたのだと気づいたのは,ずっと後になってからだ"(本書より)

 私の書棚に数多くならんでいる長田弘さんの詩集・エッセー集に新しい本が加わりました。本書『アメリカの61の風景』は,長田さんが約20年間にわたって北米大陸を気の向くまま飛行機で降り立った町から,地図と勘を頼りにレンタカーを走らせる車の旅にもとづいて,いわば路上からみた「風景という物語」を綴ったエッセー集です。

 “風景とはただ周囲に広がる風景ではない。アメリカの詩人,ウォルト・ホイットマンはある詩の一節で「子どもがじっと見つめたものは,その子どもの一部になっていった」と歌った。これこそ僕の旅の心。見つけた風景によって人は作られていく"

 と長田さんが書評欄のインタビューで述べているように,風景の広がりのなかで言葉を得つつ,そこからしか見えないアメリカを深く考えるエッセーが綴られています。

 私もちょうど20年前に2年間,ニューヨークに留学する機会を持ちました。家族3人で暮らしたニューヨーク郊外の街並み,週末や夏休みのドライブで東海岸の各都市,さらにカナダまで車旅行したことは今でも鮮明な思い出として残っています。長田さんのこの旅のエッセー集には,そのときに受けたアメリカの印象と「旅」の素晴らしさをあらためて思い起こさせました。

 エッセーとはいえ,詩のような響きのある言葉で描かれる情景は,いつもながら光っています。

 “森の木々のあいだには,なんともいえないキーンと澄んだ空気がある。森の奥の明るい静寂に耳を澄まして,ゆっくりと走る。

 木々の梢のさきの空の,青みがかった灰色がきれいだ。どう言えばいいか,すべてありふれていて,何一つ際立っていないのに,すべてがみちあふれている。ふしぎなバランスが景色のすみずみまでみたしている"(本書『アパラチアの森の木』より)

 ついテレビ,新聞報道だけをみていると,ニューヨークやワシントンなどの大都市の印象がそのまま「アメリカ」と重なってしまいがちです。

 しかし,“大都市はアメリカの例外的な場所にすぎない。一日走っても人にあわないような田舎が大部分を占める。何もないから言葉が必要だった。アメリカに行くと,言葉の力を信じている人々を実感する"(本書より)というように,大きな空間に生きる人々の姿を丹念に描く長田さんの本を留学生活を振り返りながら読んでいると,長田さんがなぜこのような旅を続けているのかを少し理解できた気がしました。

 なにもアメリカには限りません。国内でもこのような風景と言葉にめぐりあえると思います。

 “旅からもちかえるものは,いつも決まっていて,誰への贈り物にもならない,かたちのないものだ。意味あるものであっても,ごくごくありふれたもの。つまり,言葉だ。一度にすくなくとも一つ。"(本書より)

 そんな言葉をみなさんもたぶん今までの旅の中から探してみませんか? あるいは,次の旅で見つけてみませんか?

 “決まった時間の外に,じぶんをもってでる。決まった時間の外にもう一つの時間があり,そのもう一つの時間のなかに,忘れられた人生の単純さがある。旅に目的はない。ただどこかへゆく。そして,人生の単純さをじぶんに,ほんのしばらくでもとりもどす。どこか ――時間がきれいな無でみたされていて,神々がほほえんでいると感じられるような,どこか"(本書,『ミシシッピ源流』より)