妻の右舷

妻の右舷

妻の右舷

臨床看護2007年2月号 ほんのひととき 掲載
“人間は行き届かないことの多い生きものです。ある物,ある人が,自分にとってどんなにかけがえのない物であり人であったかに気づくのは,いつもかれらが知らぬ間に消えてしまったあと”(『ことのは草』大岡信著より)

 昨年は読者のみなさんにとってどんな年でしたか? 前回ご紹介した藤沢周平さんのように「普通が一番」,でも実は,普通にそして平凡に生きることがいかにむずかしいかということを感じられている方もいらっしゃるかもしれません。
 昨年,私にとっては悲しいことが重なりました。その折々に思い起こしてきた大岡さんのことばは,この連載を始めた10年前,最初に引用した一節です。
 悲しいとき,つらいときに心のリフレッシュをはかるには,友人との語らい,映画,音楽,旅行などなどさまざまな手だてがあります。この臨牀看護の連載欄にもその道しるべがたくさん記されていますね。
 私には本を読むことが,とくにこの1年はグリーフ・ヒーリング(Grief healing,深い悲しみからの癒し)になりました。
 「ほんのひととき」に取り上げた本もがんや難病の闘病記。作家の追悼記,臨床哲学などなど,自ずと私自身の心の癒しになった小説やノンフィクションが多くなってしまいました。
 今回は,詩集です。全編に「妻」が登場します。しかし,あとがきで著者の四元さんは次のように書いています。
 “これは愛妻詩集ではありません。 私たちはありふれた中年夫婦です。仲睦まじい夫婦なんてもっと始末におえない。泣くに泣けず,笑うに笑えず,どうあがいたって小説や芝居のネタにはなりはしない。
 けれど,詩の主題にならなり得るかも,と私は考えました。人生を安易なドラマに転ずるのでなく,平凡と退屈さのままに引き受けながら,その奥にひそむ生の原型を掘り起こすことこそ詩の本領なのですから。”
 四元さんのバックグランドは全く知りませんが,ちょうど落ち込んでいた昨年春に『妻の右舷』という書名にひかれて買ってみました。
 はじめの2,3篇を読んでなんの感動もなくほっといたのですが,この1年を振り返る季節になって読み返してみました。
 今回は後ろから読んでみたところ,“ここに収めたのはどれも最近の作品ですが,ひとつだけ,20歳のときに書いた詩が入っています。いま読み返してみると,なんと無邪気で暢気なとと呆れますが,同時に,四半世紀を経てなお,なにひとつ変わっていないとも感じるのです”と四元さんがあとがきで紹介している「笑顔とブランコ」(1979年)にまさに心揺さぶられてしまいました。詩を味わうには,ゆっくりとした熟成時間が必要なのでしょう。その一節です。
 “あなたが生きて笑っているので
 僕も笑ってあなたを見ている
 あなたが生きて笑っているので
 僕はかなしみを知り始める

 後ろにあがったあなたの後ろに
 常緑の梢は風に揺れその向こうに
 雲量六の夜空は広がりその向こうで
 宇宙も同じ法則と謎に支配されている”(「笑顔とブランコ」より)
 四元さんとたぶん同年代の私も,同じような経験をしたことを映画の一シーンのように鮮明に想い起こしました。
 “私にとって,妻とは「自分にもっとも身近な他者」にほかなりません。たとえ毎朝毎晩顔を突き合わせていても,存在丸ごと他者と出会うことは限りなく難しい。私は妻との関係を書こうとして,結局のところ,それを書こうとしている自分の姿ばかり眺めていた気がします”(本書あとがきより)
 さて「妻」である読者の方がお読みになったら,どんな感想をお持ちになるのかと興味があります。
 残念ながら(?),私は妻には読ませていません。

 “いつか魂の深部の,自と他の区分すらない場所で,妻と会うことができるでしょうか。そこへ到る通路は,狭く,複雑に曲がりくねった,ギリシャ神話の迷宮のようにも思えるのですが,その入り口は案外わが家の台所あたりに隠れているのかもしれません”(本書あとがきより)