街道をゆく 横浜散歩

先日、帰りがけに横浜駅東口のデパートで開催されている「没後20年 司馬遼太郎展 21世紀未来の街角で」を見てきました。
“日本人とは、日本の国とは何か、と考え続けた作家司馬遼太郎が72歳で亡くなって20年がたちました。本展では、時代を担うこどもたちに書いた『二十一世紀に生きる君たちへ』に通じる未来の街角を会場にすえ、この街角に立てば、「司馬さんにあう、作品にあう」ことができるでしょう。相模の国を治めた北条早雲を描く、『箱根の坂』、あるいは『竜馬が行く』『峠』『街道をゆく 横浜散歩』で描かれた横浜の街、思い思いのメッセージを受取ってください”という案内に惹かれました。
今まで読んできた司馬作品の元となる貴重な資料の数々、単行本、インタビュービデオなど見ごたえのある展覧会でした。ぜひ、機会があれば見に行かれるとよいと思います。
帰りがけに没後20年という表示を見て、ちょうど10年前に参加した第10回菜の花忌のことを思い出しました。そのときの記事を転載します。

臨床看護2006年5月号 ほんのひととき 掲載
司馬遼太郎記念館は来館された方々それぞれに何かを感じ取っていただけるような,あるいは司馬作品との対話,自分自身との対話などを通じて何かを考えることのできる,そんな空間でありたいと思っています"(司馬遼太郎記念館パンフレットからhttp://www.shibazaidan.or.jp/)
 司馬遼太郎さんが大動脈瘤破裂で亡くなられたのが1996年2月13日で,今年は没後10年になります。
 今年2月25日に東京日比谷公会堂で,「第10回 菜の花忌」(主催:司馬遼太郎記念財団)が開催されました。「菜の花忌」は司馬さんの亡くなった毎年2月に東京と大阪で交互に行われている会で,みなさんもご存知のように代表作の一つ,『菜の花の沖』から命名されています。
 私も前々からこの講演会に参加したいと思っていましたが,今年は幸い参加申し込みの抽選が当たり,土曜日の午後に喜び勇んで日比谷公会堂へでかけました。
 壇上には,たくさんの読者から送られたという約3,000本の菜の花が飾られ,冒頭に司馬さんの福田みどり夫人が挨拶されました。
 「10年前に司馬さんが亡くなったときには,自分が生きていけるかどうかわからず,ただ息をしているだけの状態でした。10年してこのような日を迎えることができるなんて,全く想像もできませんでした」
 という言葉には思わず感涙しました。みどり夫人は御主人のことをいつも「司馬さん」と呼んでいたそうです。
 今回の「菜の花忌」シンポジウムでは「坂の上の雲――日本の青春」と題して,作家の井上ひさし関川夏央比較文学者の芳賀徹,劇作家で評論家の山崎正和さんらが壇上に登場しました。
 この4人のシンポジストは私にとって豪華メンバーでした。この欄でも関川夏央さんの『司馬遼太郎の「かたち」この国のかたちの10年』(文藝春秋社刊)と,芳賀徹さんの『詩歌の森』(中央公論新社刊)を以前取り上げました。
 また山崎正和さんの本としては,医学生時代から森鷗外の評伝『鷗外 闘う家長』(河出書房新社刊)を折りにふれて読み返しました。
 今まで活字を通してお知り合いのつもりだった作家や評論家の肉声を聴くという経験は,ちょうどいつもCD(あるいはi-pod)で聴いている歌手のコンサートに行ったような気分でした。
 大阪にある司馬遼太郎記念館へは2年前に私は訪れました。記念館は司馬さんの自宅と庭伝いに一体化されて,庭からは生前のままに保存された書斎を窓越しに見ることができました。そして散策道を歩きながら安藤忠雄さん設計の記念館へと導かれます。
 この記念館の中にある大書架がまさに圧巻でした。「司馬遼太郎の創造空間」をモチーフとして高さ11メートルの壁面いっぱいに書棚がとりつけられ,長年小説・旅行記・随筆を書く資料として集められた二万余冊もの蔵書が展示されていました。私は週末の午後の静かな時間に初めてその書架へ入り込んだときに,その蔵書の醸し出す雰囲気にただただ呆然と立ちすくんでしまったことを思い出します。
 さて今回のシンポジウムで取り上げられた『坂の上の雲』は,日露戦争においてコサック騎兵を破った秋山好吉,日本海海戦の参謀・秋山真之兄弟と同じ伊予の国・松山で幼なじみで,明治文学に大きな足跡をのこした正岡子規の3人の男達を中心して,昂揚の時代であった明治の群像を描いた司馬さんの代表作・大叙事詩です。
 シンポの副題「日本の青春」にそって4人のシンポジストが,小説の技法からはじまって司馬史観,その後の日本の近代史,さらにはこの小説の書かれた1968年から70年代はじめの日本の状況と,なぜその時期にこの小説が書かれたのか,などなど論客たちの個性豊かな言葉に,3時間近くまさに身を乗り出して聴き入りました。
 シンポが終わったあとで壇上の菜の花が参加者全員に1本ずつ配られ,ちょっと春めいた風の吹く日比谷公園の中を,なにか満ち足りた気持ちで帰路につきました。

漱石とその時代

漱石とその時代 第1部 (新潮選書)

漱石とその時代 第1部 (新潮選書)

今年の12月9日は夏目漱石の没後100年目の命日だったそうです。
テレビ番組でも取り上げられ、晩年の漱石を描いたドラマも放映されていました。
岩波書店からは、新版の「漱石全集」が命日にあわせて刊行開始されました。
また新書の新刊売場には十川さんの漱石評伝がでていました。全集の抄録のような簡潔な文章で、初めて全集を読む人には最適な案内になると思いました。
これを機に、ひさしぶりに今度の正月休みには漱石を読み返そうと思っています。
16年前(1998年7月)に書いた、書評を再録します。

<臨床看護 第24巻8号1232頁 1998年7月>
手元において、折に触れ繰り返し読みたくなる本が愛読書だとすれば、私にとっては漱石の『三四郎』『心』がいつもそばにあります。この漱石の魅力を長年にわたって教えてくれたのが、この江藤淳氏のライフワークともいえる漱石評伝です。
今、私の本棚にある第一部・第二部は高校生のときに現代国語の教材として取り上げられた本です。
江藤淳は、夏目漱石を隈なく読んだばかりでなく、強烈な心象を築いている。評伝とはこんなに活力に満ちているものであるかと驚くであろう。苦心の調査を積み重ねており、研究家が好んで造り上げる剥製の評伝とは質を異にしている。この本を読んで感動しない人たちは、芸術家の誕生という主題に全く縁がないことになる、・・・この本は漱石愛する人たちが必ず読んでほしいと思う」(荒正人氏評)
という当時の書評通りでした。難解ながらも読み通しました。そして大学受験が終って医学部入学後、岩波書店から予約販売された漱石全集を毎月1冊ずつ本棚に並べては悦にいっていました。
大きな活字としっかりとした製本で読むと、文庫本で読むのとはまったく違う読書感がもてることをこの全集から教えられました。
その後1993年に20年ぶりとなる年に、『漱石とその時代・第三部』が出ました。漱石39歳、明治38年日露戦争の勝利とその犠牲にゆれる明治社会の時代背景と、漱石の家庭環境、内面の告白が小説として必要であった境遇、門下生との交流、大学教員を勤めながら徐々に小説家として歩み始める、その姿を自立への葛藤を見事に描いているという感想をもちました。
第四部は、明治40年に東京朝日新聞社に入社して小説記者となった漱石が、ほとんど休みなしに『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』などの諸作を連載し続ける姿を活写しています。
あとがきには“その意図は漱石の言葉を超時間化された一種抽象的な空間から呼び戻し、時代の文脈の只中に甦らせようとすることころにある”と書かれています。胃弱をかかえつつ文筆で苦闘する漱石の苦悩を、小説が連載されていた新聞紙面の構成との照応まで調べ上げて明治末期の5年間の社会状況・時代背景のなかで見事に描いています。こうした分析を通じて、これらの小説が明治の日本の文明論的本質を鋭くついていること、さらには日本の「近代化」の行く末もこの時代にあって漱石がすでに見通していることを示しています。
蛇足ですが、漱石が吐血して危篤状態になった、いわゆる「修善寺の大患」をドキュメントタッチで描いている章は、当時の医療状況を目の当たりにするようで興味を惹きました。

がんと闘った科学者の記録

がんと闘った科学者の記録 (文春文庫)

がんと闘った科学者の記録 (文春文庫)

昨年のノーベル物理学賞を受賞された梶田教授の恩師である戸塚洋二先生の大腸癌闘病の記録です。2008年に亡くなられた戸塚先生のドキュメント番組をNHKで再放送しているのをたまたま私は見て、初めてこの本のことを知りました。すぐにクリニックの近くの書店で文庫版を買い求めました。お読みなられた方も多いと思います。
お花のカタログかと思うようなきれいな写真が表紙を飾っていました。すべて戸塚先生自身が撮影されたお花で、プロのような鮮やかさが目を惹きました。
ニュートリノを研究される原子物理学者としての記録にかける周到さが、このお花の写真のみならず、CT画像の解析、ご自分の臨床データのグラフ化など本書のなかにも随所に挿入されています。

私も長年、病院勤務でがん治療に携わりながらもこのような病状の数値化について科学者としての徹底した観点を持っていなかったことを戸塚先生に指摘されたよう気持ちで読みすすめました。

進行がんにかかった患者さんすべてがこのように客観的にご自分の病状を見ることはできないとは思います。しかし治療に携わる医療者としてはこのような徹底した病状把握が必要と強く感じました。

本書を読み終えたあとに録画しておいたNHKの番組をもう一度見直しました。すっきりとして出で立ちの戸塚先生の微笑を絶やさないお姿とともに、本書に引用された正岡子規の次の言葉が今でも強く印象に残っています。

『悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。』
正岡子規

タオ 老子

タオ―老子 (ちくま文庫)

タオ―老子 (ちくま文庫)

先日、著者の加島祥造さんの訃報を新聞で読みました。
8年前に、加島さんの「タオ 老子」を書評欄で紹介したことを思い出しました。
文庫本もでているようで、心の平穏を求めるときに読み返したくなる本です。再録します。

臨床看護2000年8月号 ほんのひととき 掲載

“「老子」は人間にある宇宙意識と社会意識の間のバランスを語る。つまり,左の手は,なにも掴めない空に向かって開き,右の手は,しっかりと掴める大地のものを握りしめている。この大きなバランスを「老子」の言葉から感じとると,人は安らぎやくつろぎの気持の湧くのを覚える"(本書あとがきより)

 著者の加島祥造さんは詩人で,イエーツ,ポーなどの英文の訳詩集も多く出しています。その加島さんと「老子」のかかわりは,『タオ・ヒア・ナウ』(1993年刊,パルコ出版)からで,幾冊もの英語訳「老子」本をもとにして,「老子」の生きた口語訳を試みたのが始まりです。

 「以前の私は,現代のこの国の多くの人と同じように,原文や和訓を読んでも,『老子』が分からず,『老子』とは理解出来ないもの,ときめこんでいた」という加島さんが,英訳の漢詩集である『老子』(アーサー・ウェーリー訳)を読んでから魅せられて,「老子」のメッセージを「詩」としてとらえようとする姿勢で書かれています。

 本書の題名にある「タオ(Tao)」とは「道」のことで,中国語では,da`oまたはta`oと表記されます。そして,このda`o(ダオ)は日本語に入って道(ドウ)と発音され,道中,柔道,茶道などと使われています。英語辞書で「Taoism」を引くと,「老子荘子によって展開された哲学体系。宇宙の根本原理である道(Tao)と調和した幸福な生に到達するために,完全に素朴で,自然の流れに逆らわず干渉しない生活を唱導した,無為・自然を旨とする哲学」と書かれています。

 しかし,このような予備知識は無用と,加島さんは「あとがき」で次のように述べています。

 “他の人からの先入観や予備知識なしに,いまのあなたのままで「老子」の言葉に接し,自分のなかに共感するものがあるかどうか,験してほしい。

 私は「老子」に共感したものを,頭で邪魔されずに,なんとか再現しようとした。これがこの仕事の根底の動機だった。「老子」を私の共感から蘇(よみがえ)らせることができたら,これで私の役割は終わるのである。あとは「老子」と読者の「じかの関係」に移る。そこに共感の磁場が生じたら,訳者の私は消えうせる。"

 2500年前の中国にいたとされる老子の思想が,こうして自由口語訳でよみがえるのも,奇妙なタイムトリップのような感じがしてきます。さらに漢文では掴めなかった老子の自由な発想と明快な考え方のすばらしさが,英文という濾過装置を経て,加島さんのいう「文字にひそんでいる声として聞き取ることは命のメッセージを感得すること」につながる不思議さとも,あいまっているようです。

 本書を読みながら,私は,この欄で紹介した長田弘さんの詩集にも「老子」について次のような一節があったことを思い浮かべました。

 “剃刀と着替えと文庫本数冊。ふだん読めないようなもの。たとえば『老子』のような。いつもと変わらないままに,日々の繰り返しから,じぶんを密かに切り抜いてみる。それだけの旅だ。…誰に会うこともない。忘れていた一人の自分と出会うだけだ。その街へゆくときは一人だった。けれども,その街からは,一人の自分とみちづれでかえってくる。"(長田弘著『記憶つくり方』より)

 たぶん本書を読むには,休日の朝とか,旅先で寛いでいる時間がいいのかもしれません。

 “タオの在り方にいちばん近いのは/天と地であり,/タオの働きにいちばん近いのは/水の働きなんだ。

 そして/タオの人がすばらしいのは/水のようだというところにある。/水ってのは/すべてのものを生かし,養う。/それでいて争わず,威張りもしない。

 上善如水,水善利萬物,而不争.

 The best of men is like water;

 Water benefits all things

 And does not compete with them."(「本書第8章 水のように」より)

アメリカの61の風景

アメリカの61の風景

アメリカの61の風景

先月、新聞の訃報欄で詩人の長田弘さんが逝去されたという記事を読みました。
長田さんの詩集・エッセイを始めて読んだのは、約30年前、新聞の日曜文化欄で長田さんが出身地の福島の風景を描いた記事を読んで以来でした。ちょうど私はアメリカ留学から帰国してから、日本語の本に飢えていたときで、さりげない言葉の中に癒しを感じる文章に惹かれました。
「みえててはいるが誰れもみていないものをみえるようにするのが、詩だ」という長田さんの詩集『記憶のつくり方』を読んでから、休日の朝や、旅先で繰り返し読んだことを思い出します。
「一冊の本がみずからその行間にひそめるのは、その今という時間のもつ奥ふかい魅惑です。読書中という見えない札を、心のドアに掛けて、思うさま一人の私の今という時間を深くしてゆけるのは、おそらく、一人の私にとってもっとものぞましい読書のあり方です」(『すべてきみに宛てた手紙 晶文社刊 2001年)

年に1回、あるいは2年に1回は新しい詩集や本がでることを楽しみしていました。
旅を題材した、『アメリカの61の風景』の書評を再掲して長田さんを偲びたいと思います。
合掌

臨床看護2005年3月号 ほんのひととき 掲載

“幸福なんて,ごくささやかなものだ。幸福は,大きな空しさを真ん前にした,ささやかな充足にすぎない。(中略)

 はるか昔,ローマの賢者の遺した自省の言葉を思いだす。「普遍的な時を記憶せよ,そのごく短い,ほんの一瞬間がきみに割り当てられているのだから」とマルクス・アウレリウスは言った。(中略)

 そのときわたしは,人生で手にしうるおそらくはいちばんきれいな時間のなかを走っていたのだと気づいたのは,ずっと後になってからだ"(本書より)

 私の書棚に数多くならんでいる長田弘さんの詩集・エッセー集に新しい本が加わりました。本書『アメリカの61の風景』は,長田さんが約20年間にわたって北米大陸を気の向くまま飛行機で降り立った町から,地図と勘を頼りにレンタカーを走らせる車の旅にもとづいて,いわば路上からみた「風景という物語」を綴ったエッセー集です。

 “風景とはただ周囲に広がる風景ではない。アメリカの詩人,ウォルト・ホイットマンはある詩の一節で「子どもがじっと見つめたものは,その子どもの一部になっていった」と歌った。これこそ僕の旅の心。見つけた風景によって人は作られていく"

 と長田さんが書評欄のインタビューで述べているように,風景の広がりのなかで言葉を得つつ,そこからしか見えないアメリカを深く考えるエッセーが綴られています。

 私もちょうど20年前に2年間,ニューヨークに留学する機会を持ちました。家族3人で暮らしたニューヨーク郊外の街並み,週末や夏休みのドライブで東海岸の各都市,さらにカナダまで車旅行したことは今でも鮮明な思い出として残っています。長田さんのこの旅のエッセー集には,そのときに受けたアメリカの印象と「旅」の素晴らしさをあらためて思い起こさせました。

 エッセーとはいえ,詩のような響きのある言葉で描かれる情景は,いつもながら光っています。

 “森の木々のあいだには,なんともいえないキーンと澄んだ空気がある。森の奥の明るい静寂に耳を澄まして,ゆっくりと走る。

 木々の梢のさきの空の,青みがかった灰色がきれいだ。どう言えばいいか,すべてありふれていて,何一つ際立っていないのに,すべてがみちあふれている。ふしぎなバランスが景色のすみずみまでみたしている"(本書『アパラチアの森の木』より)

 ついテレビ,新聞報道だけをみていると,ニューヨークやワシントンなどの大都市の印象がそのまま「アメリカ」と重なってしまいがちです。

 しかし,“大都市はアメリカの例外的な場所にすぎない。一日走っても人にあわないような田舎が大部分を占める。何もないから言葉が必要だった。アメリカに行くと,言葉の力を信じている人々を実感する"(本書より)というように,大きな空間に生きる人々の姿を丹念に描く長田さんの本を留学生活を振り返りながら読んでいると,長田さんがなぜこのような旅を続けているのかを少し理解できた気がしました。

 なにもアメリカには限りません。国内でもこのような風景と言葉にめぐりあえると思います。

 “旅からもちかえるものは,いつも決まっていて,誰への贈り物にもならない,かたちのないものだ。意味あるものであっても,ごくごくありふれたもの。つまり,言葉だ。一度にすくなくとも一つ。"(本書より)

 そんな言葉をみなさんもたぶん今までの旅の中から探してみませんか? あるいは,次の旅で見つけてみませんか?

 “決まった時間の外に,じぶんをもってでる。決まった時間の外にもう一つの時間があり,そのもう一つの時間のなかに,忘れられた人生の単純さがある。旅に目的はない。ただどこかへゆく。そして,人生の単純さをじぶんに,ほんのしばらくでもとりもどす。どこか ――時間がきれいな無でみたされていて,神々がほほえんでいると感じられるような,どこか"(本書,『ミシシッピ源流』より)

桜 (岩波新書)

桜 (岩波新書)

<花は桜、古来より日本人はこの花を愛し、格別な想いを寄せてきた。里の桜、山の桜。豊かな日本の自然に育まれ、多種多様な姿を見せながら息づく桜は、日本人の美意識を象徴する花といえる。生き物としての基礎知識から、人間・歴史・文化のかかわりまで、私たちの心を捉えてやまない、花の魅力のありかを伝える> (本書 はしがきより)
今年の春もすばらしい桜が咲きました。近所であるいは旅先で満開のサクラを見るたびに、心が踊る日々が過ぎました。
まだ寒い頃から開花予報が発表になり、「桜前線」の北上にお花見予定日を決めたり、当日の天気予報に一喜一憂したり、心騒ぐ日々が4月になると毎年の楽しみになります。
今年は幸運にも京都で学会の時期に満開のサクラを見ることができました。学会の合間を見計らって(笑)、夕方に蹴上のインクライン南禅寺、岡崎疎水、知恩院円山公園祇園・白川の夜桜、そして学会翌日午前中は京都御所京都御苑下鴨神社、半木の道、京都府立植物園と歩き回りました。
そこで気がついたのは、公園や散歩道には染井吉野だけでなく、枝垂れサクラ、カンヒザクラヤマザクラが数多く植えられていたことでした。
なんとなく不思議に思いながら学会から戻って、本屋の新書売場で本書「桜」と出会いました。
<‘染井吉野’は、もともと日本列島に分布していた野生の植物ではなく、ごく近年に広まった栽培植物である。江戸時代末に江戸の染井村の植木屋から「吉野桜」として売り出されたと考えられている。
染井村は現在の東京都豊島区にあった村で、当時は江戸近郊の植木屋が集まる地区であった。大名屋敷などの庭園を管理するための植木職人が集まっており、庭園に用いる栽培植物を数多く生み出した江戸園芸の中心の一つであった。
染井村から売り出された「吉野桜」は、その花付きの良さと成長の早さなどから人気を呼び、明治時代になるとまたたく間に全国に広がることになった。成長の早さ、花が咲くときにはまだ葉が広がらない、散りだす頃に葉が広がるので、咲き始めの頃には淡い色をした花だけが目立つことになる。(中略)
染井吉野’という新たな名称を得たことが、その後の爆発的な増加にさらに影響したと思われる。「東京生まれ」という履歴がつくことになったからである。
地方分権であった幕藩体制が終わり、東京を首都とする中央集権の国家体制が確立していく時期にあたる。‘染井吉野’は植栽に広い空間が必要であることから、学校や神社、公道などの公の場所に植栽されることが多い。
なおその反動もあるだろう。東京に対抗意識を持つ都市、たとえば京都や大阪では比較的‘染井吉野’が少ない。京都御所やその周囲の京都御苑では、‘染井吉野’が植えられていない。伝統的な庭園様式を維持した結果ともいえるだろうが、東京への対抗意識があったと想像してもよいかもしれない。>(本書より)
口絵には16種類の桜の花のカラー写真があり、本文中には植物としての桜の特徴が気候風土との関係、さらには文化歴史とのつながりもわかるように丁寧に書かれていました。来春の桜の頃にはまた違った目でお花見ができそうです。
余談ですが、本書のおかげで本居宣長の一文も視覚的にもよく理解できるようになりました。
<花はさくら、桜は、山桜の、葉あかりて、ほそきがまばらにまじりて 花しげく咲きたるは 又たぐふべき物もなく 浮世のものとは 思はれず (玉かつま 本居宣長)>

日本海の拡大と伊豆弧の衝突 神奈川の大地の生い立ち

日本海の拡大と伊豆弧の衝突 ―神奈川の大地の生い立ち (有隣新書75)

日本海の拡大と伊豆弧の衝突 ―神奈川の大地の生い立ち (有隣新書75)

<2011年3月11日の東日本大震災以来、多くの研究者ばかりでなく、一般の人たちの間でも災害に関する現象が話題に上るようになりました。地球科学現象の多くはそれが起きたときには天変地異にも相当するものです。日本海が分裂し、拡大したときには大地は裂け、マグマが海底に噴き出すなど、その現象は、人類が存在していれば大地動乱であったに違いありません。
本書は1億年にわたって神奈川の大地で起こってきた現象を7人の研究者に語ってもらったものですが、それこそ天変地異そのものであったと思われます>(本書より)

私は横浜生まれの横浜育ちで、祖父代から横浜ですので「ハマっ子」です。
大学を卒業して以来、大学病院・留学期間以外はおもに神奈川県内(横浜、川崎、大和、伊勢原)の病院勤務をしてきました。開業してからも川崎市内と横浜市北部の患者さんが多く来院していただいています。
地元・神奈川県への愛着は還暦を迎えてからさらに強くなっています。
また高校生時代から地球科学にはとても興味がありました。1970年代初めに竹内均先生の「地球の歴史」を読んで、大陸分裂説を初めて知って以来、理学部に進むことも真剣に考えていた時期もありました。
神奈川県の大地と山々、とくに大山・丹沢・箱根は小学生の頃からいつも視野に入っていました。そしてドライブで箱根の大観山、湯河原の十国峠などからみる雄大な富士山・駿河湾伊豆半島相模湾の眺めはいつみても見飽きません。
いま住んでいる横浜の郊外からも、県内の山々から連なる秩父山系、高尾、小仏、御坂山地、さらには南アルプス北岳などを眺望できることを散歩の楽しみにしています。
このような神奈川の大地の生い立ちを知ることのできる新書を立ち読みで見つけることができました。それが本書『日本海の拡大と伊豆弧の衝突 神奈川の大地の生い立ち』です。出版社は横浜伊勢佐木町に本店のある有隣堂書店、実家からよく通っていた本屋さんです。
2011年3月11日の東日本大震災以来、ニュースでもプレート、トラフ、活断層といった言葉を多く耳にするようになりました。地球科学の最先端の正確な情報と、日本列島の生い立ち(約5億年)を知るにもいい本だと思います。

<陸上の火山活動と台地・丘陵の形成(200万年前〜現在)
伊豆半島の北部では、80~70万年前から宇佐美火山、熱海火山などの火山活動が始まり、40万年前頃からは湯河原火山や箱根火山が活動を始めました。大磯丘陵から相模台地、多摩丘陵下末吉台地三浦半島の丘陵地などの表面をおおている赤茶色のいわゆる赤土が関東ローム層です。この関東ローム層は、箱根火山や富士火山の火山活動によって噴出した火山灰が堆積、風化してできたものです。(中略)東部の多摩丘陵相模原台地のような、起伏が緩やかで平坦な地形の形成には、相模川などの河川による浸食・堆積作用と箱根・富士火山の火山活動が重要な役割を果たしています。
神奈川県域は4つのプレート(太平洋プレート、フィリピン海プレートユーラシアプレート、北アメリカプレート)が複雑に重なり合う、地殻変動の激しい場所に位置しています。>(本書より)