なずな

なずな

なずな

臨床看護2011年10月号 ほんのひととき 掲載
“小さな子どもがひとり身近にやってきただけで、ものごとを見る心の寸法は変わってしまうのだ”(本書より)

この夏休みに私は信州の上田市別所温泉へ旅行しました。以前に司馬遼太郎さんの『街道を行く 信州佐久平』を読んでから、千曲川沿いに広がり、鎌倉時代からの歴史のある豊かな信州の地をゆっくり旅したいと思っていました。
たまたま以前世話になった知人が、都会での勤務を50歳代でリタイアして故郷である上田市に戻り、もう20年近く晴耕雨読の生活をしていたので、手紙を出して案内をお願いしました。70歳半ばになる知人は、数年前に胃癌を患いながらも、元気に自宅の林を開拓した畑を耕し、町内会長をつとめ、ご近所のマレットゴルフ仲間と佐久平を一望できる広々とした芝生の公園でプレーを楽しみ、別所温泉で汗を流し、そして歴史協会に入って、鎌倉・室町時代からの信州馬による都との交流についてシルバー大学で論文を書いたりしていました。地方都市の豊かさを知人の「老後」の生き方に感じながら、ゆったりと「信州の鎌倉」の歴史を堪能することができました。
この旅に携えていった本が、本書『なずな』でした。舞台の地方都市は「伊都川市」という架空の街です。作者の堀江さんの出身地である岐阜県内かもしれませんし、途中ででてくる「静山大学」という名前からは静岡県の地方都市をモデルにしているのかもしれません。私にとっては、今回旅した上田市を思い浮かべながら読んでいました。
小説の主人公・菱山さんは都会で学習塾の講師をしていたときの同僚を通じて、郷里に近い伊都川の地方紙に教育問題に関するコラムを書く仕事を紹介され、定期的に寄稿しているうちに社主に気に入られて、地方紙の記者になった経歴をもつ40歳後半の独身男性で、ひょんな事情から姪っ子にあたる生後2ヶ月の「なずな」ちゃんを一人で育児することになった、いわば「イクメン」小説です。
“なずなが来てから私の身に起きた大きな変化のひとつは、周りがそれまでとちがった顔を見せるようになったことだ。こんなに狭い範囲でしか動いていないのに、じつにたくさんの、それも知らない人に声をかけられる”(本書より)
大きな事件があるわけでもなく、静かな毎日の繰り返しと小さな変化を描く、
読んでいるとおのずと心が豊かになる小説で、赤ちゃんを描写する堀江さんのこまやで温かい筆致も本書の魅力です。
“ほどよい加減になったミルクをそっと飲ませてやる。なずなは飲む。どんどん飲む。うどんどんどんだ。あったというまに飲み干したと思ったら、ぺんぺん草の手足からくたんと力が抜けて、もう目がとろとろしはじめている。ミルクの分だけ身体が重くなり、眠くなったぶんだけどこか大気中からもらったとしか思えない不可思議な重さが、こちらの肩に、腕にのしかかる。
背中をそっと叩いた。励ますように、祈るように、静かに叩き続けた。
反応のなさに不安になりかけた頃、耳もとで、がっ、と小さく湿った空気の抜ける音がした”(本書より)
そして「こんな町で子育てができたらいいなあ」と憧れさえ抱いてしまう、主人公の脇をかためる魅力的な登場人物たちの存在も、この約400頁の長編小説をいつまでも読んでいたい気分にさせてくれます。
そのなかで私が一番興味を持ったのが、町の小児科開業医である65歳の「ジンゴロ先生」とその娘で看護師の友栄さんです。夜になるとのんだくれのジンゴロ先生は、肩肘を張ったようなところもなく、自然と町の人の輪に溶け込んでいる医者として温かく描かれています。そして友栄さんの姿も、作者の堀江さんが理想としている女性像と思われてきました。

“仕事柄かとても冷静なところがあって、40歳代半ばに差し掛かっている私よりも精神面ではあきらかに上である。しかもよく笑う。子ども相手に笑顔を見せるのが習慣になっているせいかもしれないけれど、玄関口での笑みは仕事を離れた笑みだった”(本書より)