経済学に何ができるか

臨床看護2013年3月号 ほんのひととき 掲載

“われわれの知的遺産としての経済学の価値は一般に評される以上に大きいと筆者は考える。人間研究の学として、人間社会の富の生成と構造、その働きを理解する学問として、あるいは社会制度を点検するときの座標軸を与える知恵として、その価値は決して軽んぜられてはならない” (本書 はしがきより)

昨年末に行われた衆議院総選挙での論点に「日本経済の活性化」が大きく取り上げられていました。3年半前の総選挙のときにも、リーマンショックから始まったアメリカ経済の大不況、そして世界経済への大きな荒波に日本ものみこまれていて、1年間以上、日々暗いニュースが続いていました。
私たちの医療の仕事も、社会と経済の変動の動向になかにあって、日本だけでなく、世界の流れに左右されてきます。3年前、さまざまな情報の選択と判断の基準・羅針盤となるような信頼できる本をと探していたときに、『戦後世界経済史 自由と平等の視点から』(猪木武徳著 中公新書)を読み、この欄でも紹介しました。
“直面する難問の根底には必ず「価値」の選択問題がある。さまざまな価値のうち何を優先させるのか、それらにいかなる順序付けを与えるのかという問題である。経済的な豊かさ、生命、環境、静謐さ、効率等々、いずれもこの複雑な技術社会に住むわれわれが大切にしている価値である。
これらの価値の問題の選択に、自由と平等という視点からいかなる信念と態度で臨めばよいのか、最終的に人間にとって「善き生」とは何なのか、そうした問題を考えるための「よすが」となるものが、いささかなりとも本書に含まれていることを願っている”
このような骨太の主旨にそって、猪木先生から「人の幸福とは何か、わたしたちは何を得て、何を失ったのか」ということを深く考える契機を与えてくれた本でした。
今回も総選挙の時期にあわせるかのように、猪木先生の『経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み』が中公新書創刊50周年の一冊として刊行されました。
金融危機中央銀行のあり方、格差と貧困、知的独占の功罪、自由と平等のバランス、さらに正義とは、幸福とは、について経済学の基本的な論理を解説しながら、問題の本質に迫る内容”と、書評欄では絶賛されていました。読んでみるとまさに書評通りに、深い歴史的洞察に富んで知的刺激にあふれる内容が、簡潔な文体とわかりやすい構成で書かれていました。経済学と医学との比較を描いた下記の一節からは日常診療にもつながる、さまざまな視点が読み取れると思います。
“経済を豊かにする仕事は医者の役割にも似ているともいえる。医者は多くの場合、患者の病や苦痛を取り除くことはできるが、患者を幸福にすることには関与できない。医者の仕事は、患者の生命や健康にとって害のあるものを取り除き、患者自身の考える幸福を追求できるような状態に戻すことにある。同じように、経済は人々が幸福を追求できるための条件を整えるだけであった、人々を直接に幸福にすることはできないのである。しかし一定の豊かさの実現は、幸福の追求の前提条件になることは確かであろう”(本書より)
 国全体の経済、財政問題だけでなく、私たちが携わる医療制度の議論でもすぐに「抜本的改革」という言葉が飛び交うことがあります。ではそもそも制度がなぜあるのか、その歴史的考察さらには人間の感情が持つ力と文明社会との関係など猪木先生の深い学識に基づいた内容は、日々直面する問題を考える際に非常に建設的な示唆に富んでいると思います。
“制度が「合理的ではない」という一言ですぐさま「抜本的改革」の議論に移ることがある。そして改革論は、「人間は賢明で常に合理的な動物だ」、「政策の意図と結果は必ず一致する」という軽信から出ているものが多い。
しかし現実には人間が完全な知識を持つ合理的な動物ではないからこそ、「制度」によって人間を縛り、賢明かつ合理的にする、という側面があることを見逃してはならない”(本書より)