落葉 神の小さな庭で
- 作者: 日野啓三
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2002/05/02
- メディア: 単行本
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“私のベット脇に立って,その脳外科の医師は不意にさり気なくこう言った。
「あんたはおもしろいひとらしいね」
そしてひと呼吸してこう言ったのである。
「頭を開いたら,落葉が詰まっていたよ。とてもいっぱい,どうしてあんなに落葉だったんだろう」。
早春の夕暮れだった。病室内は水底のような薄明かりと落ち着いた静けさがありありと感じられ,私の頭の中から落葉がいっぱい出てきたということが,透き徹るようにリアルだった。一生落葉の中を歩いてきた気がした。カサコソとかすかな乾いた音がいつも頭の中で聞こえていた…"(本書「落葉」から)
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小説家日野啓三さんが2002年10月に73歳で亡くなられてから,もう2年たちます。1990年腎癌の摘出手術をした後,膀胱癌,鼻腔癌を発症,2度の入院の後,2000年に今度はクモ膜下出血で開頭手術を受けました。この作品は,満身創痍の日野さんが心ひそかに最後になるかもしれないことを覚悟して,その後1年間にわたり書きついだ,鬼気迫る短編集です。
以前この欄でもご紹介した『断崖の年』や『台風の眼』など,腎癌の手術を慶應大学病院で受けた闘病生活をもとにした一連の小説をこの10年間に日野さんは発表してきました。そのなかで遺稿ともいえる本書『落葉 神の小さな庭で』を没後2年したいま,あらためて読み返してみました。
今年本誌で紹介された『スピリチュアルケア』がひとつの契機で,終末期医療における患者さんとのかかわりについて見直してみたいと思っていたときに,思い起こしたのがこの短編集です。
60歳の還暦の年に腎癌の手術を受けて,週3日インターフェロン注射に外来に通い続けていたころ,家への帰り道での体験を綴った次のような一節に,「聖霊的(スピリチュアル)」という言葉が使われています。
“あの雑草との会話(正確にはガンの転移に怯えるわたしの細胞と,雑草の細胞とが,結構本気で話をし,慰め励まし合ったこと)は,本当に絶望しきって切羽詰まると,生命同士は最低のところでも,いや最も低く貧しい次元でこそ,気持ちを通じ合うことが,少なくともそう親身に想像することができるらしい,という経験であり,生理的経験,心理的経験というよりまさに種を超えるこの生命的経験は,私自身還暦の年になって実感し信じることができた初めての,思いがけない聖霊的経験でもあったのだ"(本書「神の小さな庭」より)
私自身がかつて医学を学び,研修を受け,スタッフとして働いていたことのある慶應大学病院の建物やそこに働く医師・看護師を,日野さんが闘病生活を続ける患者としての眼から見て書いた小説や短編集を初めて読んだときには,大きな落差というか,違和感を感じていました。それがこうして日野さんの没後2年目に再読してみると,心のなかでは同調する部分が多くなってきた気がしています。
“意味や目的はあいまいでも,何か温かいものがふたりの間に流れ伝わったことにふたりとも満足したことを感じ合ったとき,私は穏やかに深く感動し,「天国はこのような者の国である」という福音書の中の言葉を,しっかりと過不足なく理解したと信じた(本書「神の小さな庭」より)"
今までいつもピーンと張り詰め続けていた日野さんの心の糸が,死期を間近にしてすうっと和らいだ一節です。あらためて合掌。
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“世界は無意識の深みの広がりにおいて,重なり合い溶け合う茫々たる波動の変幻なのだ。どうしようもなく本源的な孤独の芯の荒涼たる感触があり,いくつもの偶然がうまく働き合っておのずから溶け合う仄温かい場面もある。どちらが本当ということはできない,たぶんその変幻と転調自体が,世界の本性あるいは私たち自身の正体なき正体なのだろう(本書「ある微笑」より)"