そうか君はもういないのか

そうか、もう君はいないのか

そうか、もう君はいないのか

臨床看護2008年7月号 ほんのひととき 掲載
“最愛の伴侶の死を目前にして、そんな悲しみの極みに、遺された者はなにができるのか。私は容子の手を握って、その時が少しでも遅れるようにと、ただただ祈るばかりであった”(中略)
もちろん、容子の死を受け入れるしかない、とは思うものの、彼女はもういないのかと、ときおり不思議な気分に襲われる。容子がいなくなってしまった状態に、私はうまくなれることができない。ふと容子に話しかけようとして、われに返り、「そうか、もう君はいないのか」と、なおも容子に話しかけようとする“(本書より)

昨年3月に亡くなれた城山三郎さんの『湘南』を2007年6月号の本欄でとりあげました。湘南海岸の茅ヶ崎に住んで海をこよなく愛する城山さんが、四季の移り変わりと、日ごとに変わる「光る海」の眺めを、爽やかに描いたエッセイ集でした。
このエッセイ集は書かれていなかった容子夫人を、追悼する遺稿がつい最近出版されました。出会いから結婚、そして作家生活の中で城山さんを支え続けてきた容子夫人との思い出をたんたんと描いた本書は、女性読者層にも多く読まれているようです。
“小説「指揮官たちの特攻、幸福は花びらのごとく」の登場人物について、あれこれ思いをめぐらせていたとき、容子が死んでみて分かったことだが、死んだ人もたいへんだけど、残されて人もたいへんなんじゃないか、という考えが浮かんだ。理不尽な死であればあるほど、遺族の悲しみは消えないし、後遺症も残る。そんなところから、少しの時間でも結婚生活を送って、愛し合った記憶を持つ夫婦を描けないかと思った”(本書より)
ちょうど本書を読み返していたときに、新聞の日曜日健康欄に「遺族サポート、グリーフ(悲嘆)ケア」の記事が大きく載っていました。
グリーフケア;死別で起きる悲観の反応には怒り、事実の否認、後悔や自責の念などがあり、時には不眠や食欲不振といった体の変調に出ることもある。グリーフケアでは、対象者が事実を受け入れ、環境の変化に適応するプロセスを支援する。医療従事者や心理士などの専門家のほか、自助グループも担い手になる。1960年代に米国で始まったとされ、米国やドイツなどでも広く浸透している”(日経新聞平成20年5月4日健康欄より)
数年前の緩和医療学会で初めて聴いた「遺族ケア」の概念が、新聞でも大きく取りあげらえるほどになったという感慨がありました。
さらに本書では、城山さんの追悼記に加えて、容子夫人が癌でわずか4ヶ月の闘病生活で急逝したあとの城山さんの姿を次女の井上紀子さんが、克明に描いています。
“父が遺してくれたもの、最後の黄金の日日。2000年2月24日、母がサクラを待たずに逝ってから、父は半身をそがれたまま生きていた。暗い病室で静かに手を重ね合い、最後の一瞬まで二人は一つだった。温もりの残るその手を放すとき、父は自分のなかで決別したのだろう。この直後から父は現実を遠ざけるようになった。(中略)メモ魔の父の手帳には、その日の空欄に「冴え返る 青いシグナル 妻は逝く」とだけ記されていた”(本書より)
父の姿を描いた娘の井上さんの文章を読むと、以前この欄(2006年10月号)で紹介した藤沢周平さんの長女、遠藤展子さんの『藤沢周平 父の周辺』(文芸春秋社刊)を思い出しました。
家族に慕われながら逝去した、城山三郎さんも藤沢周平さんも、海に近い茅ヶ崎在住だったことはなにかの奇遇のような気がします。

“ここはオーストラリアの最東端に位置し、そこにある灯台に行くと水平線が弧を描いているのがわかり、あ〜本当に地球は丸いのだとこの目で実感できます。主人が亡くなって7ヶ月、うつむいて細い息を吐くばかりの冬でしたが、お盆を迎え元気になりました。ダラダラと書き連ねましたが、主人とこちらへ来ていることを一言ご報告させていただこうと思った次第です”
(ご主人を癌で亡くしたご遺族からの私宛の手紙から)