漢詩,美の在りか

漢詩―美の在りか (岩波新書)

漢詩―美の在りか (岩波新書)

臨床看護2002年7月号 ほんのひととき 掲載
“主要な定型詩が形成され継承されてきたのは,ひとえにその言語の性格に即した様々な試みのなかで,最も自然で美しいと感じられる言語形式が選択され,その言語を母語(mother tongue)とする人々の共通の美的感覚に支えられつつ,長い時間を経て今日に至っている,という結果である"(本書より)

 「なんで今さら,漢詩?」と思われるかもしれません。私も高校時代に大学受験のために止むを得ず勉強した「漢文」のカビ臭い印象を長らく持っていました。この岩波新書シリーズの『新唐詩選』などを以前読んだときも,どうもなじめませんでした。
 それがつい最近,「漢詩三千年の悠久の歴史は,中国をはじめ,漢字文化圏の人々の歓び悲しみをうたいつつ,日本においても,古来,短歌・俳句とともに日本人の詩情を豊かに育み,独自の世界を形成してきた。広くて深い漢詩の魅力と生命力の実態−美の存りか−を,詩歌鑑賞の新しい視点から説き明かす」と紹介されている本書をふと書店で立ち読みして,この「美の存りか」という副題につい引き込まれて買い求めました。
 著者の松浦さんは中国古典文学・日中比較詩学を専門とする早稲田大学教授です。「美」という視点を松浦さんはあとがきで次のように述べています。
 “「美」の実態を別の言葉で言いかえることは容易ではない。われわれの実感としての「美」は確かに存在し,それがわれわれの身心を賦活(活性化)させつづけているということは,疑問の余地がない。
 「美」において大切なのは,その実感の確認であり体験である。別個の言葉で的確に説明できるか否かは,第二義的な問題に過ぎない。本書においても「美」のこうした性格にさからうことなく,現に実感的に存在する「美」の,確かな「在りか」としての「漢詩」について,その不可欠な要点を相互関連的に説き明かすように努力した"
 最近『声に出して読みたい日本語』(斉藤孝,草思社)がベストセラーになっていますが,本書ではこうした音感とリズム感という視点から,「漢詩における美の在りか」を「こころ」と「かたち」の密接不可分な関わりのなかでとらえようとしています。
 “文語自由詩をしての訓読漢詩の実態のポイントは,「視覚的・観念的」には原詩としての定型性(五言・七言など)を保ちつつ,「聴覚的・音声的」には和文詩としての自由律リズムを生んでいるという二重性を具えていることである…短歌が和語を中心とした柔らかな音感を基調としているのに対して,訓読漢詩は漢語を多用した硬質な音感をも併用することによって,短歌や俳句のような定型詩では決して表わしえない音感とリズム感を表わしているのである"
 本書を通読した後で,引用されている陶淵明李白杜甫白居易といった漢詩の典型を生んだ4人の詩人の詩を音読してみると,“「詩を読むことの楽しさ」と「詩について考えることの楽しさ」をあわせて実感していただきたい。両者が融合してなるほどと納得されるとき,その詩は,長く忘れがたいものとして心にとどまるからである。…「母語」としての日本語こそ,「漢詩」を含む外来詩歌を真に理解するためのカギである"という松浦さんの心づかいがおのずと伝わってくるようです。

 “ゆたかさとは何だろう。一言でいうならば,美しい世界のことだと,ぼくは思う。何を美しいと感じるかは人によってちがうだろう。けれど,美しい自然,美しい街並み,美しい住まい,美しい調度…だれもがそうした暮らしのなかで毎日を過ごしたいと願っているはずだ。
 しかし,美しさは,こうした外的な世界だけにあるのではない。そのような環境を願う心のなかにこそ,ゆたかさの根源が秘められていると言っていい。美しさをひたすら求める心,美しさを充分に味わうことのできる感性,美しさを夢見る想像力,これこそが真の文化を作り出すのである"(森本哲郎『月は東に』より)