新しい生物学の教科書

新しい生物学の教科書

新しい生物学の教科書

臨床看護2002年6月号 ほんのひととき 掲載
“遺伝子ほど一般的によく使われ,しかも誤用の多い生物学用語は他にない。遺伝子は生物あるいは生命の設計図だという,誤解を招きやすい比喩から始まって利己的遺伝子だのデタラメの種は枚挙にいとまがない。遺伝子をよく知らない人にとっては遺伝子は何でも可能にしてくれる魔法の呪文か,さもなくば錬金術師が探し求めたという賢者の石のごときものと思われがちだ。不思議なのは,遺伝子を自由自在に使いこなしている生物そのものである"(本書より)

 著者の池田さんは,山梨大学の生物学の先生です。本書は科学雑誌「サイアス」に連載されたもので,そのときのタイトルは『教科書にない「生物学」』だったそうです。高校の教科書では物足りない学生や理科の先生に,生物学の面白さを伝えることを目的にして,扱った話題は分子生物学,遺伝学,発生学,進化学,生態学分類学,免疫学,人類学など多岐にわたっています。
 “科学技術の応用の可否を専門家だけに任せておく時代は,もはや過去のものになりつつある。専門家は一般の人々の利益よりも専門家集団の利益を優先しがちだからだ。とは言っても,ある程度の知識が無ければ,判断しようにもどう判断してよいかわからないだろう。本書は,これ一冊で今最もホットな生物学の分野と話題が大体わかることを念頭に書かれている"と,池田さんが<はしがき>に述べているように,各章末には「まとめ」まで付いている,まさに「教科書」の形式をとっています。
 しかし,その内容は池田さんの独自の思想に裏づけられた話題が,文部科学省教科書検定の愚を繰り返し指摘しながら,非常にメリハリのきいたテンポのいい文章で綴られています。
 “不思議なことに高校の生物の教科書には「がん」という語はただのひとことも出てこない。「がんの生物学」まさに高校の「教科書にない生物学」である…寿命や老化についての記述は全くない。発生や代謝や遺伝についての記述はそれなりにたくさんあるから,宇宙人が読んだら地球の生命体は原則として不老不死だと思うかもしれない"
 そして文中で,しばしば「私見によれば」という切り口で,池田さんの「構造主義生物学的解釈」が語られています。“生物のシステムや枠組みは,自然選択とは無関係な出来事によって決まり,自然選択はその後で働くマイナーな進化プロセスにすぎないと私は思っている。進化にとって最も重要なのは遺伝子の変化ではなく,システムの定立とその変化である"
 本書が,教科書としての教育的形式をとりながらも,池田さんの専門である構造主義進化論の啓蒙に力点をおいていることが感じられます。
 たとえば人類の起源について,“私見によれば,ヒトは適応とは無関係にゲノムシステムの変更によりヒトになったのではないかと思う。具体的にいえば,遺伝子のランダムな突然変異ではなく,遺伝子の使い方を今までのやり方とは少しだけ変えたのではなかろうか。これは普通にいわれている突然変異ではなく,遺伝子発現システムの変更であり,その結果,急激な形態変化を起こしたのだと思う。ヒトとチンパンジーのDNAは98.5%同じであり他の生物ではこの違いは別種になるほどのものではないという事実も,ホミニゼーションは突然変異と自然選択の繰り返しにより起きたわけではないことを示唆するように思われる"と述べています。
 日常,従事している医療も,この「生物学の教科書」から見直してみると新鮮な感じがしてくると思います。

 “一倍体の細胞は不死なのに二倍体の細胞はなぜ死ぬのか。そのメカニズムはまだはっきりとはわかっていないが,私見によれば,一倍体の生物は偶発的な事故や飢餓以外のやり方で死ぬ能力はまだ獲得していないのである。別言すれば,死は進化の過程で生物が獲得した能力なのだ。細胞が死の能力を獲得したがゆえに,多細胞生物は複雑な形態や機能を獲得したといえる"(本書より)