風立ちぬ

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

臨床看護2013年12月号 ほんのひととき 掲載
風立ちぬ、いざ生きめやも。(ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一句)
という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉しい日々であった”(本書より)

長いことおつきあいしていただいた「ほんのひととき」も今回をもって最終回となりました。わたしの限られた読書歴のなかから『臨牀看護』の読者の皆さんに臨床現場でお役に立つような本の紹介をと心がけてきました。しかし医療関係の本だけでは間に合わなくなり、高校時代の教育からうけた影響もあって、今は絶版になっているような社会科学関係やら、地球・宇宙物理の難解な本、さらには私の旅行や美術館めぐりに関わる本まで取り上げてしまい、苦笑された方も多かったかと反省しています。
今回の本は、この夏公開された宮崎駿監督の最後になる長編映画風立ちぬ」の原作とされる堀辰雄著の『風立ちぬ』です。映画をご覧になった方も、またNHK特集で放映されたスタジオジブリでの製作過程の苦労を描いたドキュメンタリー番組を見た方も多いと思います。私にとっては、この映画が美しい文章にみちた本書を読むきっかけになりました。
“それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木陰に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私たちは肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした塊に覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生まれて来つつあるかのように・・・”(本書より)
大きなスクリーンでこの映画を観ると、綿密に描かれた映像からは原作から喚起される光景以上の感動がありました。しかしストーリーは戦闘機零戦の開発者・堀越二郎さんが学生時代だった大正から昭和、終戦までをリアルに描いた映画のようでいて、堀越さんとはまったく無関係の堀辰雄さんの小説と強引に結び付けた脚本に少し違和感をもちました。宮崎駿監督独特の「妄想」だという映画批評もネットで目にしました。
それでもこの映画でとくに興味深かったのは、八ヶ岳山麓にある信州富士見高原の結核療養所サナトリウムの描写でした。抗結核剤のなかった昭和初期の結核療養患者の実際を細部にわたって映像化しているのを観て、以前の宮崎映画「となりのトトロ」の中では昭和30年代の結核療養所を描いていたことを思い出しました。
この欄の初回で取り上げた『闘』(幸田文著)も結核療養に関わった本でした。昭和40年に発表された作品で、武蔵野の自然に囲まれた結核療養所を舞台に四季の季節の流れのなかでさまざまな患者と、医師・看護師の姿を淡々と細やかな文体で綴った小説でした。
“ほかのことでは相当に忍耐力のあるものが、なぜ看病には堪え性をなくすのか。患者も医者も看護婦もひたすら願うのは、退院の日まで変わることのない暖かい家族の看護だが、そういうことはほんとに少ない。看病には、人を落ち着かせなくする毒がある”(『闘』より)
学生時代から繰り返して呼んできた幸田さんの本には、家族の看病で何度も心が折れそうなときに私は救われてきました。いわば心の避難袋のなかにいつも携えておきたい大事な本が幸田さんでした。さらに今回、本書『風立ちぬ』を美しい映像とともにこの避難袋のなかに加えたいと思います。

ではちょっとあらたまって、最後に一言御礼。
“文学を読むことで得られる大事なことは、それによって培われる想像力です。何をまだしゃべっていないかを気がつく能力、それが想像力。”
長いこと連載させていただいた、<ほんのひととき>がみなさんの臨床現場での想像力に少しでもお役に立てたとすれば、私の望外の喜びです。
なお今後ともこのブログは毎月書いていきますのでよろしく。

癌についての質問に答える

新 癌についての質問に答える

新 癌についての質問に答える

臨床看護2013年11月号 ほんのひととき 掲載
“ 定年後は時間ができるだろうから,<がん>についていろいろな質問を受けてお答えした内容をまとめようと,メモ用紙にかきとめていた。教室を主宰して10年過ぎたとき,これが100枚近くになった。<がん>についての私の考え方を理解してくれる医局員も育ち,臨床の力もつけてきたので,一般外科で治療する癌についての質問とその回答をまとめて出版しようと思い立った”(旧版 癌についての505の質問に答える 序より)

最新の癌診断・治療知識を得るのに最適な本の新版が出ました。
監修は、熊本大学医学部外科教授でいらした小川先生です。旧版『癌についての505の質問に答える』を小川先生から送っていただき、この欄で紹介したのは2003年でした。もう10年になります。
読者として 1)癌診療専門医(インフォームドコンセントや患者さんのもっている<がん>についての知識を理解するために) 2)一般実地医家(紹介や情報提供のために) 3)レジデントおよび研修医 4)癌専門看護師 が対象と序に書かれていました。
新版では、一般外科で診る疾患に加えて、肺癌、泌尿器科癌、婦人科癌の説明が加わり、カラー写真、図表もふえて読みやすく、さらにすっきりした装丁になっています。
クリニックを開業して以来、がん治療選択の相談にのる患者さんから感じていることですが、この10年で患者さん自身あるいは家族がインターネットなどを通じて、がん知識を得るためのアクセスの容易さ、得る情報量は年々倍増してきました。しかし逆に情報過多のために治療の選択決定に際して途方にくれる方も増えてきたような気がします。
私のクリニックに通院している泌尿器科の患者さんでもこの1年間に、胃癌、胆道癌、大腸癌、肺癌、卵巣癌などが健診や当院でのフォローアップ検査でみつかり、大学病院や近隣病院への紹介をしました。そして紹介後もそれぞれの主治医から聞いた説明をもう一度確認したいため、あるいは不明な点を専門外である私の外来で質問されることが数多くあります。
そのときに座右において心強かったのが旧版『癌についての505の質問に答える』でした。もちろん年々、情報は古くなってきます。しかし再読するたびに小川先生の患者さんを診る基本姿勢を感じとって、少しでも真似ることで不安にさいなまれている患者さんに安心感をもってもらうことができました。その姿勢とは小川先生が『外科臨床講義』(へるす出版刊)のなかでまとめられている次の言葉です。
「質問を決してはぐらかさない」「責任をもって援助する決意があることを明言する」「急がず,時間をかけて話をする」そして「どんな状況でも希望の火を消さぬように,またポジティブにとらえるように話を進める」です。
新版の序文に書かれていますが、この基本姿勢が編集委員の各領域の先生方に徹底している上に、原稿ができてからさらに三校の段階で、小川先生自身が2回すべての内容に目を通して全体の統一をはかったそうです。
何回も監修者のきびしいチェックによるフィルターろ過を経て書かれた内容と文章はこの本の大きな魅力であり、安易で一方的なインターネット情報との大きな違いです。各疾患の専門外の医師・看護師・薬剤師など医療関係者のみならず、患者さんにも信頼される知識の大きな支えとなると思います。
さらに本書に加えて癌緩和ケアについては、同じく小川先生の編集による『一般病棟における緩和ケアマニュアル』(へるす出版刊2005年)をお勧めします。
“学生がなぜある一人の教師に惹き付けられるのかということは,学生にとっては説明がつかないし,不可解なことであろう。それにもかかわらず,彼らは無意識のうちに教師の考え方,感じ方,行動を真似る。少なくとも彼らが自分自身の独自のものをもつまでは"(『外科学臨床講義V 研修医のための臨床講義』より外科医ビルロートの言葉)

医師たちの証言 福島第一原子力発電所事故の医療対応記録

医師たちの証言―福島第一原子力発電所事故の医療対応記録

医師たちの証言―福島第一原子力発電所事故の医療対応記録

臨床看護2013年9月号 ほんのひととき 掲載

福島第一原発事故直後に被ばく医療の支援を目的として現地に向かったのは、一握りの医師、看護師たちであった。医師たちの活動記録を残さねばならない、生の証言を残しておかねばならない、けっして過ぎ去ったこととしてはならない、それがあのとき福島の現実を目の当たりにした私の責任である…。この記録は、医師・谷川攻一が見た福島での現実、現地で活動した医師たちが見た福島第一原発事故の医療対応の記録である”(本書より)

東日本大震災から2年半がたちました。しかし、メディアで報道される復興の状況からは被災された地域の方々にはまだまだ長い道のりが待っているようです。つい先日も、NHK報道特集で、福島第一原子力発電所事故による避難区域見直しに伴って、生活再建に苦悩する浪江町双葉町の避難住民の方々を描いた番組をみて、地震津波さらに原子力災害の傷跡の深さを改めて感じました。
昨年2012年6月の本欄で、『いのちを守る 東日本大震災南三陸町における医療の記録』(へるす出版刊)を紹介しました。編集の西澤先生は南三陸町にある公立志津川病院勤務で、震災後の同診療所で医療総括本部を取り仕切った内科医でした。震災直後の医療現場の記録を医師・看護師からだけでなく、保健師・薬剤師・救急救命士・医療事務、全国からかけつけた支援グループ、さらにはイスラエルからの医療支援チームの総括(英文、翻訳つき)にいたるまで短期間に集めて、記憶が薄れないうちにしかできない第1級資料としての本書を編集されていました。
そして今年7月には、本書『医師たちの証言 福島第一原子力発電所事故の医療対応記録』が刊行されました。編者の一人である谷川先生は、広島大学救急医学講座教授で、大震災直後から福島県での原発事故被ばく対応に駆けつけた救急・災害・被ばく医療の専門家です。
大震災後から2週間にわたって、現地で被ばくからの避難住民に立ち会った詳細な証言記録から構成される本書は、現場の写真も数多く掲載されている貴重な記録となっています。
“これまで原子力災害時の医療対応は十分に整備されてこなかった。福島県でも県防災マニュアルでの取り決めがなかったため、福島医大の医師らは自らの経験と判断に基づいて活動した。しかしながら、福島の経験から見えてきたことは、自然災害に複合した未曾有の原子力災害とはいえ、これまで私たちが培った災害医療の原則が適応できるという事実であった。そして、現地に赴いた医師たちは災害医療を理解した救急医であり、その経験をもとに臨機応変に対応した。ただ、「個」による活動には限界があった”(本書より)
本書を読みながら、記録の持つ大事さについて以前この欄で紹介した『三陸海岸津波』(吉村昭著)を改めて思い出しました。
“徹頭徹尾「記録する」ことに徹している。情緒的な解釈もしない。圧倒的な事実の積み重ねの背後から、それこそ津波のように立ち上がってくるのは、読む側にさまざまなことを考えさせ、想像させる喚起力である”(『三陸海岸津波』のあとがきより)
本書を読んだ後にまさに喚起されて、福島県原子力発電所が設置された経緯と歴史、さらに過去の事故対応について知りたくなり、近くの本屋の震災復興本コーナーでみつけた『フクシマ論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(開沼博著 青土社刊)を読みました。オフサイトセンターが設置されていた大熊町の歴史、Jヴィレッジ施設誘致の経緯など、日本における原子力開発の広い視野からの歴史を読むと、谷川先生らが現場で感じられた行政機構、政治の対応のもどかしさの遠因が少しは理解できたように感じました。

“私たち医療者は常日頃からさまざまな形で放射線に触れているにもかかわらず、残念ながら、放射線について疎く、また放射線事故災害で問題となる放射線は別のものとしてとらえる傾向にある。その背景には、医学教育における放射線に関連する教育が正当な重みを持って位置づけられていないこと、そして被ばく医療との連動も図られていないことがあげられよう”(本書より)

草枕

草枕 (岩波文庫)

草枕 (岩波文庫)

臨床看護2013年9月号 ほんのひととき 掲載
“山路を登りながら、かう考へた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る”(草枕より)

今回は美術館で教えてもらった新しい漱石の読み方について紹介します。
今年6月の梅雨の合間の爽やかな日に、東京・上野にある東京藝術大学美術館で開催されていた「夏目漱石の美術世界」展を見に行ってきました。
「文豪、夏目漱石と美術との関わりを探る研究成果が相次いでいる。東西の美術の流れを明治の文明開化の時代にあって敏感に映した漱石文学の魅力が、改めて解き明かされようとしている」と新聞の文芸欄に大きく紹介されていた記事でこの企画展を知り、初めて東京芸大のキャンパス内に足を踏み入れました。
夏目漱石は50年の生涯にわたって古今東西の美術に深く親しんだ。美術にかかわるその教養の深さには、いまの私たちの想像を超えるものがある。漱石が親しんだその美術世界の幾側面かを、漱石の脳内に収蔵されている古今東西の美術作品から一部を取り出して現実の空間に据えて新知見を加えて示してみようというのが、このたびの展覧会である”(展覧会の図録より)
以前にこの欄に書きましたが、私の漱石好きは高校1年生の現代国語の授業で取り上げらえた『漱石とその時代』(江藤淳著)を読んでから始まりました。明治時代の大きな文化変動期にあって、東西の文化に身をさらしながら、日本の伝統文化と西欧文化との違いに深く苦悩する漱石を描き出した力作でした。
いつかはゆっくりと漱石の全集を読みたいと思う気持ちを、私は理系コースにいたため高校時代はほどほどに封印していました。医学部に入ってからはちょうど当時岩波書店から新たに『漱石全集』が刊行され、大学生協から毎月予約購買することでその気持ちを開放した思い出があります。
学生時代は、明治の青春小説ともいわれた『三四郎』がもっとも好きでした。その後も夏休みや正月休みの暇なときに何回か再読しては、通俗的な恋愛物として読めるだけでなく、近代化、西洋化を続けてきた当時の日本社会に対する文明批判としても読めることを知るようになりました。
私は中年になって九州熊本を旅してからは、難解ですが『草枕』を好きになりました。『草枕』(明治39年発表)は、「主人公である画工が那古井という温泉を訪ねる旅中に体験するさまざまな出来事を通じて、自らが理想とする芸術のあり方について自問自答する内容で、古今東西の画家たちがさまざまに引用されながら展開する<絵画小説>」(芳賀徹氏)と言われています。
今回の展覧会では、この小説に描かれた伊藤若冲与謝蕪村池大雅の実物を初めて目にすることが出来ました。
企画者の一人である芳賀徹氏は、以前にこの欄で『詩歌の森』(中公新書)の著者として紹介しました。
“一篇の詩が、苦境から脱出するきっかけになったり、人情の奥行きをかいま見せたりすることは、誰しも経験するだろう。そんな、心に働きかけてくる詩を知れば知るほど、人生は豊かになる”(詩歌の森より)という文のなかの「詩」を「絵画」に置き換えてみると、漱石文学の魅力がさらに拡がるようです。
この展覧会の最後には漱石自筆の絵画作品も展示されていました。晩年近くなってから胃出血を患い、身と心をすり減らしながらも文学創作に励んだ漱石の心境を吐露するような水彩画、南画には痛々しさまでもが伝わってきました。

“私は生涯に一枚でいいから人が見て難有い心持のする絵を描いてみたい山水でも動物でも花鳥でも構はない只崇高で難有い気持ちのする奴をかいて死にたいと思ひます文展に出る日本画のやうなものはかけてもかきたくはありません…”(大正2年12月8日 画家・津田青楓宛の漱石の手紙より)

大病院

大病院

大病院

臨床看護2013年8月号 ほんのひととき 掲載
“21世紀初頭のいま、実践医学はすっかり産業化され、人間味を欠くことが多くなったようだ。情報と選択肢にあふれているが、常識ややさしさには事欠く技術至上手技の世界にあって、病院の役割とはなんだろうか。人びとが受ける治療の種類を左右する、金銭的、倫理的、科学的、社会的、個人的、文化的背景とはなんだろう。そもそも治療とはなんだろう”(プロローグより)

私は1985年から2年間、ニューヨーク医科大学に留学しました。実際には患者さんを診察、手術することはできなかったのですが、泌尿器科学教室のリサーチフェローとして、毎週のカンファレンス、オペ見学、若いレジデントの研究指導などを通じて臨床現場に接する機会に恵まれました。教室主任は、イタリア系アメリカ人、准教授はバングラディッシュレバノン、関連病院の部長はドイツ、韓国、香港、ベトナムからの移民のドクター、さらにレジデントは1.5世にあたるアルメニア人、イタリア人、中国人、プエルトリコ人など多彩でまさに人種のるつぼでした。
大学のキャンパスはニューヨーク市郊外の緑豊かなウェストチェスター郡にありました。関連病院はニューヨーク市ブロンクス、クイーンズ、さらにマンハッタンでも治安が悪かったハーレム地区にある公立病院など街の喧騒がそのまま伝わってくるところにあり、持ち回りで週1回行われる早朝カンファレンスにこわごわ出席しました。今のニューヨークはかなり安全になったのですが、当時は地下鉄に乗ることもままならない状況でした。
今でも鮮明に思い出すのは、留学して初めてブロンクスヤンキーススタジアム近くにある病院でのカンファレンスに出席したときのことでした。外傷患者の腹部レントゲンの腎臓付近に小指頭大の真っ白なカゲが写っていました。主任教授がにやにやしながら、「カール、何だと思う?」と私に質問してきました。「レントゲン撮影の際にフィルムについたキズかと思いますが…?」とたどたどしく答えると、教授は「銃弾のXPは見たことないのか?日本では外傷は日本刀だけか?!」とジョークで切り返えされ、出席者に大爆笑されました。
さて今回、紹介する『大病院』はニューヨーク市ブルックリンにあるマイモニデス医療センターを舞台としたノンフィクションで原書は2008年に刊行されました。翻訳書が今年3月に出たので、留学時代の経験を思い起こせる期待をもって買い求めました。
“とにかく騒々しくて、優に70人を超える登場人物が出たり入ったりする。ブルックリン・ボローバーク地区という正統派ユダヤ人が多く圧倒的な影響力と及ぼすが、新しい移民も多い地域の大病院。67の言語が院内で話され、毎年12万人の外来患者、ERは8万人超の救急患者を受け入れる忙しさだ。医師だけでなく、病院幹部、看護師、研修医、助手、清掃スタッフ、患者とその家族、地元政治家や有力者、診療所の医師、ユダヤ教のラビ、通訳、ボランティアまでさまざまな人びとの声をもとに徐々にその大病院の姿を明らかにする(訳者あとがきより)”
著者のサラモンさんはニューヨークタイムズウォール・ストリートジャーナルの記者をつとめ、臨床心理士の眼をもつノンフィクション作家で、なんと1年間も病院の中を自由に取材して回る許可を得て、患者のプライバシーは守りながらもスタッフのありのままの姿、会話、心理的葛藤を描き出しています。
とにかく面白く、私は日本の今の医療現場との類似点、相違点を痛切に感じながら上下二段組みで400ページを越す大書を一気に読みきりました。もし日本にもこれほどまで赤裸々な取材を許す病院がでてくれとすれば、それはきっと日本の医療が進歩(?)した証しになるのでしょうね。

“病院は映画ビジネスと似ているところがたくさんあると思ったよ。この世界の人たちも、才能や企業家精神、野心、自己満足をもち、ビジネスとクリエイティブのバランスに腐心している。大きな違いは、病院では二度めのテイクはないということだ。映画は絵空事だ。でも、病院は現実なんだ”(本書より)

ジヴェルニーの食卓

ジヴェルニーの食卓

ジヴェルニーの食卓

臨床看護2013年7月号 ほんのひととき 掲載
“いままでにヴァンスのロザリオ礼拝堂へいらしたことはある?あら、ないんですのね。だったら、人生の「楽しみの箱」がひとつ、まだ開けられずにのこっているようなものよ。マティスの生涯を通じて、もっとも重要で、かつ集大成となる仕事を認められているヴァンスの礼拝堂は、どんなに南仏の光を愛してやまなかったかを、足を一歩踏み入れるだけで教えてくれます。そう、そして、いかなる人の人生にも光があふれる瞬間があるのだ、とも”(本書 「うつくしい墓」より)
昨年、この欄で紹介した『楽園のカンヴァス』の著者、原田マハさんの新刊書が4月に出ました。モネの『睡蓮』が装丁に使われた美しい本で、新刊コーナーですぐに目に付きました。
「描いた作品はどこかで見たことがあるけど、その生涯についてはよく知らないそんな印象派の画家(マティスピカソドガセザンヌゴッホ、モネ)とその周りの人々の物語。新しい美を求め、時代を切り拓いた巨匠たちの人生が色鮮やかに蘇る。一気に読むのがもったいない作品、読む美術館」と帯に紹介されていました。
ちょうどこの本に出会う前に、箱根の成川美術館では、「画家・平松礼二、世界への挑戦」という企画展がありました。フランス・ジヴェルニーの印象派美術館で、日本人画家として初めての個展が6月に開催される予定だそうで、それを祝して開催された展示でした。モネの『睡蓮』に啓発されてジャポニズムの本質を掴もうと、長年苦労されてきた平松さんの数多くの作品をゆっくりと鑑賞できました。私がもっとも足繁く通っている芦ノ湖湖畔の日本画を専門とする美術館で、「印象派の絵」を見ることは新鮮な驚きでした。
“モネは30歳代に日本の浮世絵に出会い、すっかり心を奪われた。それは、その後のモネの絵画に重要な影響力を及ぼす発見だった。風景や場面の一部をばっさりと大胆に切り取った構図、単純明快なのに奥行きを感じさせる色。みずみずしい鮮やかさはいま刷り上ったばかりのようで、インクのにおいすら漂う気がした。あれからずっと、日本はモネの憧れの国になった。日本的な情緒のあふれる、睡蓮の浮かぶ池を抱く庭を作るのが長いあいだの夢だった”(本書より)とあるように、印象派画家は江戸時代の浮世絵の影響を強く受けていました。それが平松さんという現代を生きる日本画家によって逆輸入されて、その絵がまたフランスに渡るという、いわば文化交流の現場に立ち会っている感動を成川美術館で覚えました。そして直後に、本書『ジヴェルニーの食卓』を読んだのは私にとっては奇遇でした。
「本作は史実に基づいたフィクションです」と巻末に書かれていますが、画家たちの家を支えた、家政婦、画材屋、パトロン、モデル、再婚した妻の娘などの視点を通して描かれたこれらの小説には、その時代を生きた画家の真実の姿が目の当たりに浮かび上がってくるようです。とくに私が原田さんの筆力に驚いたのは、まさに「読む美術館」という書評通りに、実際の絵を見ているかのような精緻な表現力です。
“ひとつの作品は、真昼の池。鏡のように青く澄み渡り、さかさまの白い雲を映して静まり返る水面。ところどころにぽつぽつと浮かぶ睡蓮は、空のただなかに花開き、かすかに呼吸しているかのようだ。もうひとつは、日本のしだれ柳が並ぶ池のほとり。ごくささやかな風が、長く伸びた柳の枝葉を揺らして、いましも通り過ぎていくようだ。睡蓮の花々も、微風を受けようと可憐な白い顔を上げている。湿気を帯びたやわらかな空気と水の匂い。漣の上でぴちぴちとはねる光。遠く草原を渡って、たったいまこの池にたどりついた六月の風”(本書より)
余談ですが、私は今年のゴールデンウィークの連休にニース、パリへ旅行しました。ニースではマティス美術館、ヴァンスのロザリオ礼拝堂、パリではオルセー美術館を見て回りましたが、原田さんの本のおかげで印象派画家の足跡をよりリアルに辿ることができました。

明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち

臨床看護2013年6月号 ほんのひととき 掲載

“ひとつの死の前と後で、世界の色がすっかり変わった人々の存在を、その時、知ることになる。人を奈落の底に突き落とすには、たったひとりの死で十分なのだ。その人がかけがえのない人であればあるほど、落ちて行く先は、深い”(本書より)
ちょうど6年前の春にこの欄で山田詠美さんの『無銭優雅』(幻冬舎刊)を紹介しました。私にとっては初めて読んだ山田さんの恋愛小説でした。それ以来、新刊がでるたびに買い求めてきました。
山田さんの恋愛小説は 「大人の恋ばかりか,人はどうやって別れの悲しみ,心の中にある苦しみを乗り越えて立ち直っていくのか,ということが描かれている。それを描くためにこそ,山田詠美はいつも恋愛を書く」という書評通りです。また『無銭優雅』のなかには、場面転換のたびに挿入される20冊あまりの名作からの引用がありましたが、どれもが死によって終わる小説や詩歌で,そのこだわりが本筋と響きあっていました。
今回出版された『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』は、東京郊外に住む澄川家の中心にいて家族の絆をつなぎとめていた17歳の長男・澄生の突然死のあとに漂流しつづける家族の物語で、家族の死を背負い見続け、埋めがたい不在について考え続ける小説です。
“凡庸で平和で、それ故にかけがいのない日々だった。満ち足りている故に少しばかり退屈な家族。私たちは、その中にいる自分たちを贅沢だと知っていた”という澄川家の家族構成はかなり複雑に設定されています。
最近かけがえのない家族を失ったつらい経験をなさった、あるいは患者さんのグリーフ・ケアのなかで苦労されている読者の方も多いと思います。私も7年前に家族の死が続いた年がありました。そのときにいちばんの癒しの処方箋になったのは、家族の死について書かれた小説や随筆でした。昨年七回忌をおえて心の中では封印していた悲しみが、この小説を読み進めると別の形で甦ってきました。
“澄生の死によって、自分たち家族には多くのものが貯えられて来たようだ。時が埋葬の土のように少しずつかけられ、やがて、すっかり隠されてしまう種類の死がある。また、時は薬の役目を果たすこともある。まとわり付いた周囲の人々の苦しみや悲しみは、それによって溶かされ、目立たない骨組みだけが残った死。他にも色々な役割を持つ時が、死を小さくしていく。
けれども、澄生の死は、そのどれとも違う経過を辿っている。彼の死は、減っていく死ではなく増えていく死だ。自分たち家族は、彼の死が慎ましい形になろうとするのを断固として拒否している”(本書より)
そして長男の死から立ち直れずに、アルコール依存症になった母親・美加の姿を読むと、私が患者さんのグリーフ・ケアのときによく引用する言葉をかけたくなりました。 
“待つことじたいを忘れようとするなかで,立ち止まって,何度も何度もじぶんにこう言い聞かせるほかないのが,忘れがたいことである。「忘れてええことと,忘れたらあかんことと,ほいから忘れなああかんこと」この腑分けがいつか傷口を被うかさぶたになるまで,ひとはなんどでも立ち止まる。立ち止まりかけて,立ち止まるなとじぶんに言い聞かせる”(鷲田清一著;「待つ」ということ)
しかし、この小説からのメッセージは悲しさばかりではありません。いつもながら山田詠美小説の魅力は、重いテーマを扱いながらも心の癒しを感じることのできる美しい文章が散りばめられていることにあると思います。
“開け放したフランス窓から吹き込んで来る五月の風のための風鈴のようにクリスタルガラスが澄んだ音を何度も何度も響かせる。気分がいいったら、ない。五月の風をゼリーにして持って来い、と綴った詩人は誰だっけ。シャンパンに溶かして口に含んだ方が、はるかに美味だと教えたいくらいだ”(本書より)