やさしく読める 脳・神経の基礎知識

臨床看護2013年5月号 ほんのひととき 掲載

“基礎の基礎だけど間違いやすいところをはっきりさせ、少しややこしいところをすっきりさせる。そうした基礎知識を理解することが、患者さんの病状のみならず心の理解の窓口になることを願い、一部踏み込んで紹介しました”(本書 はじめにより)

ふだんどこにでもありそうでいて、なかなか出会えない本に出会いました。
臨床に即して正確でかつ最新の医学知識を盛り込み、しかもわかりやすく、初心者でも部外者でも大事なことは理解でき、さらに繰り返しや質問・ドリルが盛り込まれてすぐに外来や病棟でも役立つ工夫とレイアウト、図表に満ちている「脳・神経の教科書」が、本書『やさしく読める 脳・神経の基礎知識』です。
著者は長崎川棚医療センター・西九州脳神経センターの脳神経外科部長である浦崎先生で、この本の成り立ちを次のように述べています。
“この本の内容は脳神経外科医として、実際に経験した患者さんから得られたものばかりです。そのほかに、院内の勉強会で寄せられた質問、外来が終わった後や当直のときに尋ねられたことなども盛り込みました”(本書より)
経歴を見ると浦崎先生と私はほぼ同年代です。私も30歳代半ばに初めて泌尿器科医長として出張した病院の泌尿器科病棟で、同じような勉強会を毎週行っていた頃を思い出しました。今まで泌尿器科常勤医長がいなかった病棟で、スタッフにどのように泌尿器科の基礎知識を知ってもらい、術前・術後の管理について理解を深めていくかを手術室や病棟婦長(当時)さんらと相談して行ったのが、手術日翌朝の週1回のミニ勉強会でした。
病棟の一角にあった狭いナース控え室のテーブルをかこんで、日勤勤務の始まる前の15分間を使って前日のオペの内容、あるいは次週のオペ患者さんの病気、治療法について基礎知識を持ってもらうように繰り返し説明しました。出入り自由、外来、オペ室スタッフ、さらには研修医もときおり顔を出すようになって、次第に出席者からは質問も出るようになってきました。
この出張病院でのミニ勉強会の効果を踏まえて、大学に講師として戻ってからも、毎週はじめに病棟のカンファレンスルームでレジデントと病棟ナースらと昼休みに激辛のタイカレー弁当を買ってこさせて(タイカレーの専門店が大学病院前にありました)、週明けの意識レベルをアップさせながら勉強会もした時期もありました。
さて本書の大きな魅力は、浦崎先生が“コーヒーでも飲みながら、あるいはお菓子でも摘みながら、リラックスして読んでいただければと思います”と書かれている以上の深い内容がさりげなく、会話形式で表現されている点だと思います。その一例です。
“U先生;意識って、どんなものだと思う?
主任ナース;自分と周りを認知することかしら。
U先生;さすが主任さん。準備なしのいきなりのインタビューであるのにこの答えです。なかなかすぐにこのように表現できるものではありません。意識の研究者らは「自己と環境についてわかっている状態を意識清明という」と定義しています。ただし、「意識とはなにか」については、われわれのような救急医療の従事者が用いる場合と脳科学者や哲学者が表現する場合とはかなりのギャップがあることを理解しておく必要があります。(中略)では、意識をとのように捉えたらよいと思う?
主任ナース;意識そのものはと覚醒度と内容に分けてみていくとよいと理解しています。
U先生;私と主任さんは意識について共通の捉え方をしていることがわかりました”(本書 41章 意識より)
私は泌尿器科臨床医となってからは、本書に出てくる研修医レベルの知識程度しかなく、苦手で避けてきた分野が脳神経科学領域の診断・治療の知識でした。本書を一気読みして、少しはレベルアップ(本書でいうレベル3以上)になったような手応えと、苦手意識がとれました。浦崎先生、ご丁寧なご指導をありがとうございました!

京都の平熱 哲学者の都市案内

京都の平熱  哲学者の都市案内

京都の平熱 哲学者の都市案内

臨床看護2013年4月号 ほんのひととき 掲載
“古い町にあっていまの郊外のニュータウンにないものが三つある。一つは大木、一つは宗教施設、いま一つは場末だ。この三つには共通するものがある。世界が口を空けている場だということだ。・・・京都という街には、こうした世界が口を空けているところ、まだまだたっぷりある。ドラマで描かれるよりはるかに、形而上学的に妖しい街なのである”(本書より)

私は学生時代から、京都を旅することが好きです。学会があるときにはその合い間に、あるいは連休を利用して年1回は、京都の町をぶらぶらする時間を作っています。以前、この欄でも紹介した『羊の歌』(加藤周一著)、『活動写真の女』(浅田次郎著)、『京都夢幻記』(杉本秀太郎著)、『京都うた紀行 近現代の歌枕を訪ねて』(永田和宏河野裕子共著)などを繰り返して読んでは、限られた時間のなかで自分なりにお気に入りの場所を見つけ出してきました。欲張って古刹・名跡を一日に数箇所廻るよりも、ゆっくり京都の町を散策しながら、友人から教えてもらった美味しいお店でのんびりする時間を大切にするようになりました。
今年はまだ初詣の賑わいもある1月中旬、関東では大雪だった日、京都市内では雨で、比叡山の山頂が雪化粧した時期に旅してきました。
今回の旅の案内書が本書『京都の平熱』です。著者は大阪大学学長だった鷲田清一先生で、いままでもこの欄で臨床哲学を提唱した『聴くことのちから』などの本を紹介しました。
“昼の剥きだしの街ではなく、夜の化粧した街でもなくて、黄昏どき、視界がぼやけ、ふだんは気づかれない都市の両義性の表情が、わずかな時間、くっきりと姿を現す。ふだんは見えない感覚、形をなさない感覚が一斉にうごめきだす。その時間帯に京都をぶらぶら歩くのが、たぶんいちばんおつだとおもう”(本書より)
京都市バス「206番」の路線に沿って、鷲田先生が生まれ育ちそして学んだ京都の学校・大学の思い出を随所にちりばめた、<哲学者の都市案内>で3年前に刊行されていました。拝観料をとる寺院の案内は一切なく、「はじめて、じぶんが生まれ育った街についてまとまった文章を書くことになった。身にしみこんだ記憶をさぐるようにして」とあとがきにあるように一般の観光案内にはない意外性に満ちた内容がつめこまれています。
さらに本書の大きな魅力は、難しい言葉だけでなく、美味しい庶民料理のお店(ラーメン、べた焼き、喫茶店、格安の呑み屋などなど)の情報を随所にまじえながら、街の表情を写真つきで紹介してくれるところにあります。
“京都はニューヨークと似ている。通りの名前が、である”という一節からは、まるで私自身が初めてニューヨークのマンハッタンを訪れたときような感覚がふっとわいてきました。つい「古都」というイメージにとらわれがちですが、ご存知のように京都は先進性にも満ちた産業都市でもあります。
“人体を精密に測定したうえで複写する京都の計測文化・技術の背景には、簾、扇子、仏壇、金箔加工、象嵌、表装、襖張り、染めと織り、仏像の修理などの精密な職人文化が、さらには現代の京都を引っ張っているハイテク産業、計量機器や精密機械(京セラ、オムロン村田製作所)、パソコン・ゲームの開発(任天堂)などの精密技術が、ベースとしてある”
鷲田先生は21世紀の京都基本構想会議のとりまとめ役も勤めていたそうで、その内容を平易な次のような言葉でまとめられました。日常臨床の場にもつながる言葉だと思います。
“京都基本構想では、あえて京都人がこれまで「得意わざ」とひそかに自負してきたものを5つ列挙し、あらためてそれらを再確認しようということになった。その5つは<めきき> 本物を見抜く批評眼、<たくみ> ものづくりの精緻な技巧、<きわめ> 何ごとも極限にまで研ぎ澄ますこと、<こころみ> 冒険的な進取の精神、<もてなし> 来訪者を温かく迎える心、<しまつ> 節度と倹約を旨とするくらしの態度である”(本書より)

経済学に何ができるか

臨床看護2013年3月号 ほんのひととき 掲載

“われわれの知的遺産としての経済学の価値は一般に評される以上に大きいと筆者は考える。人間研究の学として、人間社会の富の生成と構造、その働きを理解する学問として、あるいは社会制度を点検するときの座標軸を与える知恵として、その価値は決して軽んぜられてはならない” (本書 はしがきより)

昨年末に行われた衆議院総選挙での論点に「日本経済の活性化」が大きく取り上げられていました。3年半前の総選挙のときにも、リーマンショックから始まったアメリカ経済の大不況、そして世界経済への大きな荒波に日本ものみこまれていて、1年間以上、日々暗いニュースが続いていました。
私たちの医療の仕事も、社会と経済の変動の動向になかにあって、日本だけでなく、世界の流れに左右されてきます。3年前、さまざまな情報の選択と判断の基準・羅針盤となるような信頼できる本をと探していたときに、『戦後世界経済史 自由と平等の視点から』(猪木武徳著 中公新書)を読み、この欄でも紹介しました。
“直面する難問の根底には必ず「価値」の選択問題がある。さまざまな価値のうち何を優先させるのか、それらにいかなる順序付けを与えるのかという問題である。経済的な豊かさ、生命、環境、静謐さ、効率等々、いずれもこの複雑な技術社会に住むわれわれが大切にしている価値である。
これらの価値の問題の選択に、自由と平等という視点からいかなる信念と態度で臨めばよいのか、最終的に人間にとって「善き生」とは何なのか、そうした問題を考えるための「よすが」となるものが、いささかなりとも本書に含まれていることを願っている”
このような骨太の主旨にそって、猪木先生から「人の幸福とは何か、わたしたちは何を得て、何を失ったのか」ということを深く考える契機を与えてくれた本でした。
今回も総選挙の時期にあわせるかのように、猪木先生の『経済学に何ができるか 文明社会の制度的枠組み』が中公新書創刊50周年の一冊として刊行されました。
金融危機中央銀行のあり方、格差と貧困、知的独占の功罪、自由と平等のバランス、さらに正義とは、幸福とは、について経済学の基本的な論理を解説しながら、問題の本質に迫る内容”と、書評欄では絶賛されていました。読んでみるとまさに書評通りに、深い歴史的洞察に富んで知的刺激にあふれる内容が、簡潔な文体とわかりやすい構成で書かれていました。経済学と医学との比較を描いた下記の一節からは日常診療にもつながる、さまざまな視点が読み取れると思います。
“経済を豊かにする仕事は医者の役割にも似ているともいえる。医者は多くの場合、患者の病や苦痛を取り除くことはできるが、患者を幸福にすることには関与できない。医者の仕事は、患者の生命や健康にとって害のあるものを取り除き、患者自身の考える幸福を追求できるような状態に戻すことにある。同じように、経済は人々が幸福を追求できるための条件を整えるだけであった、人々を直接に幸福にすることはできないのである。しかし一定の豊かさの実現は、幸福の追求の前提条件になることは確かであろう”(本書より)
 国全体の経済、財政問題だけでなく、私たちが携わる医療制度の議論でもすぐに「抜本的改革」という言葉が飛び交うことがあります。ではそもそも制度がなぜあるのか、その歴史的考察さらには人間の感情が持つ力と文明社会との関係など猪木先生の深い学識に基づいた内容は、日々直面する問題を考える際に非常に建設的な示唆に富んでいると思います。
“制度が「合理的ではない」という一言ですぐさま「抜本的改革」の議論に移ることがある。そして改革論は、「人間は賢明で常に合理的な動物だ」、「政策の意図と結果は必ず一致する」という軽信から出ているものが多い。
しかし現実には人間が完全な知識を持つ合理的な動物ではないからこそ、「制度」によって人間を縛り、賢明かつ合理的にする、という側面があることを見逃してはならない”(本書より)

3.11から考える「この国のかたち」

3・11から考える「この国のかたち」―東北学を再建する (新潮選書)

3・11から考える「この国のかたち」―東北学を再建する (新潮選書)

臨床看護2013年2月号 ほんのひととき 掲載
“現在の「東北」は、50年後の日本である。地震津波によって、30年かけてゆるやかに起こるはずだった変化が一気に目前の出来事となりました。50年後の未来に避けがたくやって来る人口8000万人の日本列島では、自然はこれまでの人間の生活圏を深く侵してくる。田んぼや畑が潟や原野に還っていく姿は、あきらかに黙示録的な風景です。しかも「汚染とともに生きる」という困難なテーマがかぶさっている。そういう時代になってしまったということです”(本書より)

もう10年以上前になりますが、この欄で民俗学を専門とする東北芸術工科大学教授(当時)だった赤坂さんの『東西南北考 いくつもの日本へ』(岩波新書)をご紹介しました。“東西から南北へ視点を転換することで多様な日本の姿が浮かび上がる。「ひとつの日本」という歴史認識のほころびを起点に,縄文以来,北海道・東北から奄美・沖縄へと繋がる南北を軸とした「いくつもの日本」の歴史,文化的な重層性をたどる。あらたな列島の民族史を切り拓く”という大きなテーマに添ってわかりやすく,簡潔な新書判にまとめられた本でした。その後も新聞の文化欄や本で、赤坂さんの提唱する「東北学」に私は興味があって読んできました。
今回、本書『3.11から考える「この国のかたち」 東北学を再建する』を書評欄でみて早速買い求めました。東日本大震災から2年近くたつ今、さまざまな復興への取り組みが報道されて総選挙でも復興および原発問題が大きな論点になりました。東北の文化・歴史をめぐる民俗学に長年取り組み、そして東日本大震災復興構想会議の委員でもある赤坂さんが、大震災直後から東北各地を歩き回った記録(フィールドノート)が本書の元になっています。
画像を中心とするメディアから伝えられる被災された東北地方の復興の姿はどうしても表層的になりがちですが、本書では過去の深い歴史的背景、文化的多様性から論じられています。そこには『遠野物語』の柳田国男、災害論を明治時代に書いた寺田寅彦らの著作も引用されています。
“大津波が来るとひと息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまっている場所でも繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になる。いつ来るかもわからない津波の心配よりも明日の米びつの心配の方がより現実的であるからであろう。それを止めだてするというのがいいかどうか、いいとしてもそれが実行可能かどうか、それは、なかなか容易ならぬむつかしい問題である”(寺田寅彦著 『災害雑考』より)
今から100年も前に物理学者の寅彦が指摘したことと、同じような感想を赤坂さんも本書の中で書き綴っています。
“被災地を歩き始めて半年あまりを経て、各地の多様なむきだしの現実に向き合うことが増えています。その多様性がいま、見えない分断のラインとなり、地域が利害によって引き裂かれ、人々が孤立に追い込まれているようにかんじてなりません”(本書より)
さらに本書では、単に目に見える復興という観点だけでなく、多くの亡くなられた犠牲者の方々に対する「喪」の形についても、東北地方独特の風習をもとに数多く紹介されています。医療現場でいわれる「グリーフケア」ともかかわる大事な視点と思います。

“被災地の外にいる人たちは、忘却にむけてとうに動き出しています。被災者に最大の危機がやってくるのは、まさにこの忘却を周囲から突きつけられたときだ、といわれますね。「災厄の記憶は風化でなく浄化されるべきもの」であり、浄化とは「喪の作業」、つまり愛する人を永遠に呼び返せないという事態の理不尽さに折り合いをつけるプロセスだと指摘されています。被災地ではこれからも、この「喪の作業」がさまざまに重ねられていくでしょう”(本書より)

天地明察

天地明察

天地明察

臨床看護2013年1月号 ほんのひととき 掲載
“暦は約束だった。泰平の世における無言の誓いと言ってよかった。
「明日も生きている」
「明日もこの世はある」
天地において為政者が、人と人とが、暗黙のうちに交わすそうした約束が暦なのだ。この国の人々が暦好きなのは、暦が好きでいられる自分に何よりも安心するからかもしれない”(本書より)

今年の5月21日に日本各地で金環日食が見られました。私も朝の通勤時間をやりくりして、見事な天体ショーに感激しました。次に日本で見られる金環日食は北海道を中心にして2030年と報道されていました。あらためて天文学の精緻さが感じましたし、その時期まで私も生きていられればとつい思ってしまう歳になりました。
さらに夏、8月14日には金星の前を月が横切って金星を隠す現象である、金星食が全国でみられました。まれな天体現象が続いた1年も終わりに近づき、来年の暦、カレンダーを用意する時季になりました。暦好きは日本に限らないと思いますが、とくに四季の移ろいに敏感なこの国の民族性が、日常生活でも「暦の上では」という表現を多く使っていることにもつながっているようです。
さて今回、ご紹介する『天地明察』はすでに2年前にベストセラーになり、そして今年の秋には映画化もされて文庫本も出版されたのでお読みになった方も多いと思います。私は秋になって映画化のポスターを見て初めてこの本を知りました。本来ならば、金環日食金星食の前に読んでおきたかったと思いながら500頁近い大書を一気に読み切りました。
江戸時代の5代将軍・綱吉の頃に改暦に携わった渋川春海(はるみ)の生涯を描いた、史実に基づいた時代小説です。今まで日本の天文学、それを支える算術・算学、和算の歴史書を読んだことがなかったので、すべてが新鮮でした。本書の時代背景を理解して読むにあっては、江戸時代の暦の原則についてのネット情報が役立ちました。
“江戸時代の暦は月を中心とし、1年を12ケ月か13ケ月とした、太陰太陽暦でした。この暦では、新月の日が一日(朔日)にあたります。そこで、日食は必ず月初めの一日(朔日)に起こらなければならず、それに失敗すると時の幕府の権威がなくなってしまいます。世の中が戦乱の世から落ち着くと、暦に関心がもたれるようになりました。当時、平安時代から使用されていた宣明暦による食の予報ははずれることが多かったようです。当時盛んだった和算の視点から暦の検討が行われるようになりました。1673年、渋川春海は授時暦で改暦を行うことを上奏しました・・”(富山市科学博物館ホームページより)
私は高校生時代から地球物理が好きで、いままでも本欄で宇宙論、地球・惑星の歴史,地球生命の進化と宇宙とのかかわりというジャンルの啓蒙書を何冊か紹介してきました。本書を読みながら、今回の春海とほぼ同時代を生きた物理学者のニュートンを描いた『ニュートンの海』(ジェイムズ・グリック著 NHK出版)の一節をまず思い浮かべました。
“「私という人間が世間の目にどう映っているかは知らないが,自分では海辺で遊ぶ子どものようなものだとしか思えない」と,ニュートンは死ぬ前にいっている。「ときに普通よりなめらかな石ころや,きれいな貝殻を見つけたりして,それに気をとられているあいだにも,眼前には真理の大海が,発見されぬまま広がっているのだ」”(『ニュートンの海』より)
さらに江戸時代の数学者、和算学者の関孝和がこの小説のなかで上手に取り上げられています。ある書評には“関孝和ニュートンライプニッツに先駆けて微積分を見つけたとも称される数学の天才。本書は改暦への苦難を縦糸に、そして関に体現される数学への憧憬を横軸に織られた、一大算術ドラマなのである”と書かれていました。
今まで私は自然科学史というと西欧ばかりに目を向けていたのですが、冲方さんの意欲がみなぎっている本書を読み終えて、日本のとくに江戸時代の科学史、さらには医学史の本にも目を配りたいと思いました。

歴史のなかの大地動乱 奈良・平安の地震と天皇

歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇 (岩波新書)

歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇 (岩波新書)

臨床看護2013年11月号 ほんのひととき 掲載
陸奥国の地、大いに震動す。流光、昼の如く隠映す。しばらく人民叫呼して、伏して起きることあたはず。(中略)海口は咆哮し、その声、雷に似る。驚濤と漲長して、たちまち城下にいたる。海を去ること数十百里、浩々としてその涯を弁ぜず。原野道路すべて滄溟となる。船に乗るいとまあらず、山に登るも及びがたし。溺死するもの千ばかり、資産・苗稼、ほとんどひとつとして遺ることなし”(『日本三代実録』・貞観(じょうがん)11年(869年)5月26日条 )

今年の秋に九州での学会のあとに、長崎・雲仙を旅する機会がありました。島原半島は高校時代の修学旅行で訪れて以来、私にとって40年ぶりでした。雲仙温泉の「地獄めぐり」の噴気帯近くの宿に泊り、散策路では大地の地熱をじかに感じ、1990年代の普賢岳の噴火・火砕流による大きな被害の記録を読み直すと、日本列島がまさに今も活動している火山列島であることを改めて強く実感しました。
旅から帰ってきてから、火山噴火、地震津波に対して古代から日本に住み着いた人々はどのように関わり、そして乗り越えてきたかという長い歴史を具体的に教えてくれる本に出会いました。
「1200年前の奈良・平安の世を襲った大地の動乱。それは、地震活動期にある現在の日本列島を彷彿させる。貞観地震津波、富士山噴火、南海・東海地震阿蘇山噴火・・・。相次ぐ自然の災厄に、時の天皇たちは何を見たか。未曾有の危機を、人びとはどう乗り越えようとしたか。地震・噴火と日本人との関わりを考える、歴史学の新しい試み」という書評をみてすぐに買い求めました。著者である保立先生は歴史学を専門とする東京大学史料編纂所教授です。本書執筆のきっかけを次のように書いています。
“いうまでもないことながら、3.11東日本太平洋岸地震の衝撃にあった。(中略)その前の同年1月に「いくつもの神話と火山」という文章を書いていた。そこではオオナムチ=大国主命地震神であることについてふれていた。しかし、3.11の巨大な揺れは、すべてを検討し直すことを要求した。自分のブログで、9世紀の貞観地震を示す『日本三代実録』の史料の原文を紹介した。(中略)私は、歴史家として地震史料を読み解き、その作業をまとめることを責務と感じるようになったのである”(本書あとがきより)
昨年8月、この欄で『三陸海岸津波』(吉村昭著 1970年刊)を紹介しました。明治29年(1896年)の津波昭和8年昭和35年と三たび大津波に襲われた三陸海岸を丁寧に取材して前兆、被害、救援の様子を体験者の貴重な証言をもとに書かれ、“徹頭徹尾「記録する」ことに徹して、情緒的な解釈もしない。圧倒的な事実の積み重ねの背後から、それこそ津波のように立ち上がってくるのは、読む側にさまざまなことを考えさせ、想像させる喚起力である”と評価されている歴史小説でした。歴史史料を蒐集し、編纂するという地味な仕事が極めて大きな意味を持つことを教えてくれる本でした。
本書『歴史のなかの大地動乱』では歴史史料編纂のプロである保立先生が、1200年も前の史料と最新の地震研究の成果を駆使して、まさに文理融合の新しい挑戦の成果をわずか1年という猛スピードで書き上げたことにも驚き、そして「温故知新 (ふるきをたずねて 新しきを知る)」をそのまま実践された保立先生の強いパワーを随所に感じることができると思います。

“21世紀以降の「大地動乱の時代」がもしあるとすれば、それを迎えるために決定的な役割を負っているの、地震学・火山学を中心とする地球科学の研究であり、歴史学はそのような事態に対しては無力である。それを認めた上で、歴史家として感じることは、現代という時代は、あるいは時空を越えて歴史的な経験をふり返ることが実際に必要になる時代なのかもしれないということである。この時代、この列島社会にいける共通の感覚や知識になっていくことを願ってやまない”(本書より)

付記 『日本三代実録』・貞観(じょうがん)11年(869年)5月26日条の現代語訳(意訳)のインターネットからの引用です。
http://www.geocities.jp/sybrma/377jougannosanrikujishin.html
貞観11年5月)26日癸未(みずのとひつじ)の日。陸奥国(むつのくに)に大地震があった。夜であるにもかかわらず、空中を閃光が流れ、暗闇はまるで昼のように明るくなったりした。しばらくの間、人々は恐怖のあまり叫び声を発し、地面に伏したまま起き上がることもできなかった。ある者は、家屋が倒壊して圧死し、ある者は、大地が裂けて生き埋めになった。馬や牛は驚いて走り回り、互いを踏みつけ合ったりした。多賀城の城郭、倉庫、門、櫓、垣や壁などは崩れ落ちたり覆(くつがえ)ったりしたが、その数は数え切れないほどであった。河口の海は、雷のような音を立てて吠え狂った。荒れ狂い湧き返る大波は、河を遡(さかのぼ)り膨張して、忽ち城下に達した。海は、数十里乃至(ないし)百里にわたって広々と広がり、どこが地面と海との境だったのか分からない有様であった。原や野や道路は、すべて蒼々とした海に覆われてしまった。船に乗って逃げる暇(いとま)もなく、山に登って避難することもできなかった。溺死する者も千人ほどいた。人々は資産も稲の苗も失い、ほとんど何一つ残るものがなかった。

横浜の時を旅する ホテルニューグランドの魔法

横浜の時を旅する (ホテルニューグランドの魔法)

横浜の時を旅する (ホテルニューグランドの魔法)

臨床看護2012年11月号 ほんのひととき 掲載
“タワー館最上階にあるチャペルから、海側を見下ろしたことがあります。言葉が出ないほど感動しました。みなとみらい、赤レンガ倉庫、大桟橋、象の鼻パーク、山下公園ベイブリッジ・・・。このパノラマは、開港横浜の歴史を物語る一大歴史絵巻です。ただ眺めているだけではもったいなくて、わたしはそれを語らずにはいられません”(本書より)

私は、祖父・祖母の代からの横浜生まれ、横浜育ちの「ハマっ子」です。実家が港まで自転車で丘を越して行ける距離だったので、山下公園マリンタワー港の見える丘公園は日曜日の朝の自転車散歩コースでした。大学を卒業して臨床研修を始めてからは、約15年間は全国さまざまな出張病院での研修のため、毎年のように引っ越しをしてきましたが、1993年に大学に講師としてもどったときから横浜市郊外へ「帰って」きました。その間、いつも学会が横浜であるときには先輩・同僚・後輩を誘い、故郷の町自慢をするような気分で中華街や、みなとみらいを飲み歩きしていました。
しかし、長いこと横浜にいながら横浜の歴史についての本を読んだのは、つい10年前に司馬遼太郎著『街道をゆく21巻 神戸・横浜散歩』が初めてでした。この本は1979年初出で、おもに幕末に横浜村が開港して外国人居留地として発展していく頃が描かれていました。
今回、ご紹介する『横浜の時を旅する』は幕末、明治から始まって大正時代、関東大震災、そして戦後の横浜の歴史を山下公園に隣接するニューグランドホテルを中心に丁寧な取材をして書かれた本です。横浜市内の本屋の新刊書コーナーに平積みされていた本書の表紙には、山下公園、海岸通りの銀杏並木を眺望するホテルニューグランド本館の写真がクラシックな雰囲気をたたえており、ハマっ子の私は郷愁を感じて(笑)すぐに買い求めました。
著者の山崎洋子さんは、1947年、京都府宮津市生まれで、神奈川県立新城高等学校を卒業、コピーライター、児童読物作家、脚本家などを経て、1986年、『花園の迷宮』で第32回江戸川乱歩賞を受賞し、小説家デビューされ、横浜を舞台にした著作が多く、芝居の脚本・演出も手掛けているそうです。出版元の春風社桜木町に近い紅葉坂にあります。本書について山崎さんは春風社の書評インタビューで次のように語っていました。
“まず横浜の人に読んでもらいたいな、と思います。横浜はイメージが勝ってしまっている街で、みんな「横浜は新しいことと古いことが混在していて素敵よね」などとおっしゃるのですが、新しいことは「みなとみらい」などすぐ挙げられるのですが、古いことはなかなか出てこない。やはり3回も中心部が焼けていて、古いものが残っていないことが大きな原因となっているようです。横浜が大好きな私からすると、こんなにスリリングな歴史があることが知られていないことが悔しくて、知ってもらいたくてこの本を書きました”
横浜港が外国旅行へのまさに玄関口であった明治から昭和中期まで、生糸貿易、横浜家具、フランス料理、イタリアン料理、中華街、ジャズなど、ハイカラな横浜が日本人にとって憧れの土地であった歴史を、実際のインタビュー記事と写真をまじえての丁寧な仕上がりになっていることも本書の魅力です。次回、読者の皆さんが学会であるいは旅行で横浜へ来る機会にはぜひこの本をお持ちになられることを、「ハマっ子」としてお勧めしたいと思います。

山下公園は大正12年9月1日の関東大震災で出た瓦礫を埋めて造られました。日本初の海浜公園でもあります。それまで、あそこは海だったのです。このホテルの窓から山下公園を眺めると感無量です。なぜならこのニューグランドホテルも、震災からの復興を祈念し、横浜が官民一体となって建設したホテルだからです”(本書より)