明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち

臨床看護2013年6月号 ほんのひととき 掲載

“ひとつの死の前と後で、世界の色がすっかり変わった人々の存在を、その時、知ることになる。人を奈落の底に突き落とすには、たったひとりの死で十分なのだ。その人がかけがえのない人であればあるほど、落ちて行く先は、深い”(本書より)
ちょうど6年前の春にこの欄で山田詠美さんの『無銭優雅』(幻冬舎刊)を紹介しました。私にとっては初めて読んだ山田さんの恋愛小説でした。それ以来、新刊がでるたびに買い求めてきました。
山田さんの恋愛小説は 「大人の恋ばかりか,人はどうやって別れの悲しみ,心の中にある苦しみを乗り越えて立ち直っていくのか,ということが描かれている。それを描くためにこそ,山田詠美はいつも恋愛を書く」という書評通りです。また『無銭優雅』のなかには、場面転換のたびに挿入される20冊あまりの名作からの引用がありましたが、どれもが死によって終わる小説や詩歌で,そのこだわりが本筋と響きあっていました。
今回出版された『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』は、東京郊外に住む澄川家の中心にいて家族の絆をつなぎとめていた17歳の長男・澄生の突然死のあとに漂流しつづける家族の物語で、家族の死を背負い見続け、埋めがたい不在について考え続ける小説です。
“凡庸で平和で、それ故にかけがいのない日々だった。満ち足りている故に少しばかり退屈な家族。私たちは、その中にいる自分たちを贅沢だと知っていた”という澄川家の家族構成はかなり複雑に設定されています。
最近かけがえのない家族を失ったつらい経験をなさった、あるいは患者さんのグリーフ・ケアのなかで苦労されている読者の方も多いと思います。私も7年前に家族の死が続いた年がありました。そのときにいちばんの癒しの処方箋になったのは、家族の死について書かれた小説や随筆でした。昨年七回忌をおえて心の中では封印していた悲しみが、この小説を読み進めると別の形で甦ってきました。
“澄生の死によって、自分たち家族には多くのものが貯えられて来たようだ。時が埋葬の土のように少しずつかけられ、やがて、すっかり隠されてしまう種類の死がある。また、時は薬の役目を果たすこともある。まとわり付いた周囲の人々の苦しみや悲しみは、それによって溶かされ、目立たない骨組みだけが残った死。他にも色々な役割を持つ時が、死を小さくしていく。
けれども、澄生の死は、そのどれとも違う経過を辿っている。彼の死は、減っていく死ではなく増えていく死だ。自分たち家族は、彼の死が慎ましい形になろうとするのを断固として拒否している”(本書より)
そして長男の死から立ち直れずに、アルコール依存症になった母親・美加の姿を読むと、私が患者さんのグリーフ・ケアのときによく引用する言葉をかけたくなりました。 
“待つことじたいを忘れようとするなかで,立ち止まって,何度も何度もじぶんにこう言い聞かせるほかないのが,忘れがたいことである。「忘れてええことと,忘れたらあかんことと,ほいから忘れなああかんこと」この腑分けがいつか傷口を被うかさぶたになるまで,ひとはなんどでも立ち止まる。立ち止まりかけて,立ち止まるなとじぶんに言い聞かせる”(鷲田清一著;「待つ」ということ)
しかし、この小説からのメッセージは悲しさばかりではありません。いつもながら山田詠美小説の魅力は、重いテーマを扱いながらも心の癒しを感じることのできる美しい文章が散りばめられていることにあると思います。
“開け放したフランス窓から吹き込んで来る五月の風のための風鈴のようにクリスタルガラスが澄んだ音を何度も何度も響かせる。気分がいいったら、ない。五月の風をゼリーにして持って来い、と綴った詩人は誰だっけ。シャンパンに溶かして口に含んだ方が、はるかに美味だと教えたいくらいだ”(本書より)