3.11から考える「この国のかたち」

3・11から考える「この国のかたち」―東北学を再建する (新潮選書)

3・11から考える「この国のかたち」―東北学を再建する (新潮選書)

臨床看護2013年2月号 ほんのひととき 掲載
“現在の「東北」は、50年後の日本である。地震津波によって、30年かけてゆるやかに起こるはずだった変化が一気に目前の出来事となりました。50年後の未来に避けがたくやって来る人口8000万人の日本列島では、自然はこれまでの人間の生活圏を深く侵してくる。田んぼや畑が潟や原野に還っていく姿は、あきらかに黙示録的な風景です。しかも「汚染とともに生きる」という困難なテーマがかぶさっている。そういう時代になってしまったということです”(本書より)

もう10年以上前になりますが、この欄で民俗学を専門とする東北芸術工科大学教授(当時)だった赤坂さんの『東西南北考 いくつもの日本へ』(岩波新書)をご紹介しました。“東西から南北へ視点を転換することで多様な日本の姿が浮かび上がる。「ひとつの日本」という歴史認識のほころびを起点に,縄文以来,北海道・東北から奄美・沖縄へと繋がる南北を軸とした「いくつもの日本」の歴史,文化的な重層性をたどる。あらたな列島の民族史を切り拓く”という大きなテーマに添ってわかりやすく,簡潔な新書判にまとめられた本でした。その後も新聞の文化欄や本で、赤坂さんの提唱する「東北学」に私は興味があって読んできました。
今回、本書『3.11から考える「この国のかたち」 東北学を再建する』を書評欄でみて早速買い求めました。東日本大震災から2年近くたつ今、さまざまな復興への取り組みが報道されて総選挙でも復興および原発問題が大きな論点になりました。東北の文化・歴史をめぐる民俗学に長年取り組み、そして東日本大震災復興構想会議の委員でもある赤坂さんが、大震災直後から東北各地を歩き回った記録(フィールドノート)が本書の元になっています。
画像を中心とするメディアから伝えられる被災された東北地方の復興の姿はどうしても表層的になりがちですが、本書では過去の深い歴史的背景、文化的多様性から論じられています。そこには『遠野物語』の柳田国男、災害論を明治時代に書いた寺田寅彦らの著作も引用されています。
“大津波が来るとひと息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまっている場所でも繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になる。いつ来るかもわからない津波の心配よりも明日の米びつの心配の方がより現実的であるからであろう。それを止めだてするというのがいいかどうか、いいとしてもそれが実行可能かどうか、それは、なかなか容易ならぬむつかしい問題である”(寺田寅彦著 『災害雑考』より)
今から100年も前に物理学者の寅彦が指摘したことと、同じような感想を赤坂さんも本書の中で書き綴っています。
“被災地を歩き始めて半年あまりを経て、各地の多様なむきだしの現実に向き合うことが増えています。その多様性がいま、見えない分断のラインとなり、地域が利害によって引き裂かれ、人々が孤立に追い込まれているようにかんじてなりません”(本書より)
さらに本書では、単に目に見える復興という観点だけでなく、多くの亡くなられた犠牲者の方々に対する「喪」の形についても、東北地方独特の風習をもとに数多く紹介されています。医療現場でいわれる「グリーフケア」ともかかわる大事な視点と思います。

“被災地の外にいる人たちは、忘却にむけてとうに動き出しています。被災者に最大の危機がやってくるのは、まさにこの忘却を周囲から突きつけられたときだ、といわれますね。「災厄の記憶は風化でなく浄化されるべきもの」であり、浄化とは「喪の作業」、つまり愛する人を永遠に呼び返せないという事態の理不尽さに折り合いをつけるプロセスだと指摘されています。被災地ではこれからも、この「喪の作業」がさまざまに重ねられていくでしょう”(本書より)