歴史のなかの大地動乱 奈良・平安の地震と天皇

歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇 (岩波新書)

歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇 (岩波新書)

臨床看護2013年11月号 ほんのひととき 掲載
陸奥国の地、大いに震動す。流光、昼の如く隠映す。しばらく人民叫呼して、伏して起きることあたはず。(中略)海口は咆哮し、その声、雷に似る。驚濤と漲長して、たちまち城下にいたる。海を去ること数十百里、浩々としてその涯を弁ぜず。原野道路すべて滄溟となる。船に乗るいとまあらず、山に登るも及びがたし。溺死するもの千ばかり、資産・苗稼、ほとんどひとつとして遺ることなし”(『日本三代実録』・貞観(じょうがん)11年(869年)5月26日条 )

今年の秋に九州での学会のあとに、長崎・雲仙を旅する機会がありました。島原半島は高校時代の修学旅行で訪れて以来、私にとって40年ぶりでした。雲仙温泉の「地獄めぐり」の噴気帯近くの宿に泊り、散策路では大地の地熱をじかに感じ、1990年代の普賢岳の噴火・火砕流による大きな被害の記録を読み直すと、日本列島がまさに今も活動している火山列島であることを改めて強く実感しました。
旅から帰ってきてから、火山噴火、地震津波に対して古代から日本に住み着いた人々はどのように関わり、そして乗り越えてきたかという長い歴史を具体的に教えてくれる本に出会いました。
「1200年前の奈良・平安の世を襲った大地の動乱。それは、地震活動期にある現在の日本列島を彷彿させる。貞観地震津波、富士山噴火、南海・東海地震阿蘇山噴火・・・。相次ぐ自然の災厄に、時の天皇たちは何を見たか。未曾有の危機を、人びとはどう乗り越えようとしたか。地震・噴火と日本人との関わりを考える、歴史学の新しい試み」という書評をみてすぐに買い求めました。著者である保立先生は歴史学を専門とする東京大学史料編纂所教授です。本書執筆のきっかけを次のように書いています。
“いうまでもないことながら、3.11東日本太平洋岸地震の衝撃にあった。(中略)その前の同年1月に「いくつもの神話と火山」という文章を書いていた。そこではオオナムチ=大国主命地震神であることについてふれていた。しかし、3.11の巨大な揺れは、すべてを検討し直すことを要求した。自分のブログで、9世紀の貞観地震を示す『日本三代実録』の史料の原文を紹介した。(中略)私は、歴史家として地震史料を読み解き、その作業をまとめることを責務と感じるようになったのである”(本書あとがきより)
昨年8月、この欄で『三陸海岸津波』(吉村昭著 1970年刊)を紹介しました。明治29年(1896年)の津波昭和8年昭和35年と三たび大津波に襲われた三陸海岸を丁寧に取材して前兆、被害、救援の様子を体験者の貴重な証言をもとに書かれ、“徹頭徹尾「記録する」ことに徹して、情緒的な解釈もしない。圧倒的な事実の積み重ねの背後から、それこそ津波のように立ち上がってくるのは、読む側にさまざまなことを考えさせ、想像させる喚起力である”と評価されている歴史小説でした。歴史史料を蒐集し、編纂するという地味な仕事が極めて大きな意味を持つことを教えてくれる本でした。
本書『歴史のなかの大地動乱』では歴史史料編纂のプロである保立先生が、1200年も前の史料と最新の地震研究の成果を駆使して、まさに文理融合の新しい挑戦の成果をわずか1年という猛スピードで書き上げたことにも驚き、そして「温故知新 (ふるきをたずねて 新しきを知る)」をそのまま実践された保立先生の強いパワーを随所に感じることができると思います。

“21世紀以降の「大地動乱の時代」がもしあるとすれば、それを迎えるために決定的な役割を負っているの、地震学・火山学を中心とする地球科学の研究であり、歴史学はそのような事態に対しては無力である。それを認めた上で、歴史家として感じることは、現代という時代は、あるいは時空を越えて歴史的な経験をふり返ることが実際に必要になる時代なのかもしれないということである。この時代、この列島社会にいける共通の感覚や知識になっていくことを願ってやまない”(本書より)

付記 『日本三代実録』・貞観(じょうがん)11年(869年)5月26日条の現代語訳(意訳)のインターネットからの引用です。
http://www.geocities.jp/sybrma/377jougannosanrikujishin.html
貞観11年5月)26日癸未(みずのとひつじ)の日。陸奥国(むつのくに)に大地震があった。夜であるにもかかわらず、空中を閃光が流れ、暗闇はまるで昼のように明るくなったりした。しばらくの間、人々は恐怖のあまり叫び声を発し、地面に伏したまま起き上がることもできなかった。ある者は、家屋が倒壊して圧死し、ある者は、大地が裂けて生き埋めになった。馬や牛は驚いて走り回り、互いを踏みつけ合ったりした。多賀城の城郭、倉庫、門、櫓、垣や壁などは崩れ落ちたり覆(くつがえ)ったりしたが、その数は数え切れないほどであった。河口の海は、雷のような音を立てて吠え狂った。荒れ狂い湧き返る大波は、河を遡(さかのぼ)り膨張して、忽ち城下に達した。海は、数十里乃至(ないし)百里にわたって広々と広がり、どこが地面と海との境だったのか分からない有様であった。原や野や道路は、すべて蒼々とした海に覆われてしまった。船に乗って逃げる暇(いとま)もなく、山に登って避難することもできなかった。溺死する者も千人ほどいた。人々は資産も稲の苗も失い、ほとんど何一つ残るものがなかった。