妻を看取る日

妻を看取る日 国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録

妻を看取る日 国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録

臨床看護2010年4月号 ほんのひととき 掲載
“まだまだ生きたかったであろう妻の無念さを思うとき、妻を癌で逝かせてしまった自分の無力さを思うとき、私は今なお手に残っている、あのときの妻の手の温もりを思い出し、なんとか踏みとどまってきた。妻は、幸せだったのだからと”(本書 プロローグより)

以前、板橋繁先生の闘病記『できれば晴れた日に 自らの癌と闘った医師とそれを支えた主治医たちの思い』(へるす出版新書)をこの欄で紹介したときにも書きましたが、昨年6月に大阪で緩和医療学会が開催されました。夏のような青空が拡がり、会場の大阪国際会議場前を流れる堂島川には心地よい風が吹き渡っていました。
会員数が約8000人、そのうち看護師が3000人という大きな学会になり、従来の癌疼痛対策といった症状コントロールだけではなく、「いのち」を診る、家族を診るといった、より広がりのある講演、シンポジウム、事例発表が2日間に凝縮されていました。
学会2日目土曜日の朝のことでした。参加受付ブースで、国立がんセンター名誉総長の垣添先生にお会いしました。財団法人日本対がん協会会長でもあり、4年前には横浜での緩和医療学会総会を主催された、日本のがん治療の第一人者であることは皆さんもよくご存知のことと思います。私にとっては泌尿器科医として最も尊敬する大先輩で、いままでも泌尿器科の学会、研究会を通じて先生にはよく声をかけていただいてきました。
その日も受付でお会いして、「どう元気?」と先生からご挨拶いただき、「緩和医療学会は、泌尿器科学会では得られない勉強ができます」とお話ししたりしていました。
そのとき、ぽつりと垣添先生が「実はね、1年前に妻を肺小細胞がんで亡くして、酒浸りの日々なんだよ」とおっしゃいました。なんと返答していいか、声が詰まってしまいました。私も4年前に身内をがんで亡くし、しばらく気力が落ち込んでいた時期がありましたので、その日は学会場での講演を聴いていても、垣添先生と会話が頭のなかでぐるぐると廻り続けてしまいました。
帰京後、先生からすぐにお手紙と亡くなれた奥様の遺作絵画集が送られてきました。そのなかで甲状腺がん肺腺がん、そして三度目になる肺小細胞癌で2007年12月31日に、享年78歳で逝去されたことが記されていました。
そしてさらに昨年12月の年の瀬に、先生から贈っていただいた本が本書『妻を看取る日 国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録』です。すぐに拝読しましたが、あまりにも先生と奥様の闘病生活が身近に感じられたので、なんと感想を書いていいのかしばらくは茫然としていました。
年が明け、ようやく友人にもこの本の経緯を話すことができるようになりました。
“本書は、長年がん治療に関わってきた医師が、妻をがんで亡くし、絶望の淵から立ち上がり、再びなんとか歩み始めるまでの記録である”と帯に紹介されているように、前半は闘病生活をそして後半には、先生の「グリーフケア」の日々が感情を抑えた簡潔な表現で描かれています。癌の治療研究に長年携わってきた先生の実感のこもったことばには、患者さん・家族・遺族のみならず、医療者の心にも大きく響くものを感じとれると思います。

“私自身は、どん底の三ヶ月の間も、専門家によるグリーフケアを受けようとは思わなかった。そもそも立ち直ろうという気にもなれず、そうした本を読む気にもまったくなれなかったのだ。しかし、だいぶ落ち着いてからグリーフケアに関する書籍や論文にじっくりと目をとおすと、私の心身に起こった現象と一致するものがたくさんあることがわかった。急性期の生身をあぶられるような苦痛は、やがてすこしずつ治まっていく。そこに至るまで、私の場合は一人で苦しみぬいたが、苦痛を軽減するグリーフケアは、社会的にもっと定着させる意味があるものだとおもう”(本書より)