できれば晴れた日に

できれば晴れた日に―自らの癌と闘った医師とそれを支えた主治医たちの思い (へるす出版新書)

できれば晴れた日に―自らの癌と闘った医師とそれを支えた主治医たちの思い (へるす出版新書)

臨床看護2009年9月号 ほんのひととき 掲載
“この本は癌の闘病記である。がん患者(私)の日記を基にしたものである。タイトルの由来は、晴れた日に死にたい、とか西行法師のように桜の下で死にたい、ということでない。三男の、小学2年生のときの作文からとった。癌の手術を乗り越え、まだ再発をしていなかった頃の作文である。(本書 「はじめに」に代えて より)”

今年6月に大阪で緩和医療学会が開催されました。梅雨の合い間にもかかわらず、大阪は夏のような青空が拡がり、会場の大阪国際会議場前を流れる堂島川には心地よい風が吹き渡っていました。
会員数が約8000人、そのうち看護師が3000人という大きな学会になり、従来の癌疼痛対策といった症状コントロールだけではなく、「いのち」を診る、家族を診るといった、より広がりのある講演、シンポジウム、事例発表が2日間に凝縮されていました。
学会終了後の土曜日夕方には、市民公開講座として柏木哲夫先生の「緩和医療のこころ」が開催されました。緩和普及啓発事業のシンボルである、オレンジバルーンが壇上いっぱいに浮かぶなかで、ひさしぶりに柏木先生のユーモアあふれる講演を聴くことができました。
講演の中で、「生命(せいめい)」と「いのち」の違いについて、生命倫理学者でもあった阪大哲学の中川米造先生のことばが引用されていました。
“「私の生命はまもなく終焉を迎えます。しかし私のいのち、すなわち私の存在の意味、私の価値観は永続に生き続けます。ですから、私は死が怖くありません」”
そして<生きる力(生命)を支える医療だけでなく、生きていく力(いのち)の両方を診ていくことが「緩和医療のこころ」だ>と、いままで柏木先生が長年にわたって勤めてこられた、淀川キリスト教病院ホスピスで約2500人の患者さんの看とり経験をもとにしたお話しに、満席の会場は涙とそして笑いにつつまれていました。
この学会場の書籍コーナーには、たくさんの緩和医療に関する医学書、雑誌、一般書がならべられていましたが、そのなかで多数の学会参加者が手にしていた新書が目につきました。それが今回、ご紹介する板橋繁著『できれば晴れた日に』(へるす出版新書)でした。著者名をみても臨床看護の読者の方々にはぴんとこないかと思います。
ペンネームが「野笛涼」といえば、おわかりになるでしょうか?本誌で2001年2月号から2008年1月号まで7年間、この欄のお隣りのページで『ドレスのナース Tシャツのナース』を執筆され、そして2009年2月には『なぜ、かくも卑屈にならなければならないのか』として遺稿集が出版された野笛涼先生が、板橋繁先生です。
『できれば晴れた日に』は、板橋先生が2005年2月から胃がんを患い、その1年後には癌性腹膜炎による闘病がつづいた日々に書き綴った日記をもとにして、治療に関わった医療チームの外科医、腫瘍内科医、院長が「そのときの・その日の思い」をまとめた斬新な構成の新書です。
“この手記には、終末期の癌患者の苦悩の一つの典型という以上に、板橋繁という固有の宿命が刻み続けた生の形が息づいている。運命の幸不幸の解釈も拒絶して動じない、一筋の硬質な奇跡を目の当たりにして、私はまたも語るべき言葉を失う。(主治医のG医師の回想より)”
読み終えて、私が一番に感じたのは、板橋先生の「怒り」です。
“実際に癌患者になり、しかも進行癌で予後が悪いとなると、しかも子どもたちが小さいとなると、もうそれどころではない。癌と闘うな、と言われても闘わざるを得ないのだ。(中略)そこにいる癌、こいつが家族の将来を壊しにかかっている。闘うしか道はないじゃないか!”
さらに再読して、そして本の題名を読み返してみると、その「怒り」が板橋先生のご家族への深い愛情表現であることに気づかされました。
いつの日か続編として、板橋先生の闘病生活に関わった看護チームの「追記」がでることを期待したいと思います。 合掌