イサム・ノグチ 宿命の越境者

世界的彫刻家イサム・ノグチの母親であるアメリカ人女性、レオニー・ギルモアの波乱の生涯を描いた伝記ドラマ映画「レオニー」が11月20日から封切りされるので、本書の紹介を再録します。

イサム・ノグチ―宿命の越境者〈上〉

イサム・ノグチ―宿命の越境者〈上〉

臨床看護2001年6月号 ほんのひととき 掲載
“芸術家には自分しかない。一人だけで何かを作り上げていく,孤独な世界だ。孤独の絶望からこそ,芸術は生まれる。ぼくは生まれたときから,その孤独の淵にいる人間だった"(本書より)

 イサム・ノグチは,日本人で詩人の父親とアメリカ人の母親の私生児として,明治37年(1904年)にロサンゼルスで生まれ,3歳から14歳の初等教育を日本で明治大正初期に受けた経歴をもつ日系彫刻家です。彫刻のみならず,舞台装置,商業デザインから,庭園,遊園地に至る分野にまで手を広げ,1988年没直前に設計を手がけた札幌のモエレ沼公園が,死後10年目の1998年にオープンしたことをご存じの方も多いと思います。
 その生涯を,ノンフィクション作家のドウス昌代さんが丹念な取材と綿密な構成で綴ったのが本書です。ドウス昌代さんは,発掘した事実を積み重ねるノンフィクション手法で,日米にまたがる歴史的事件や出来事に焦点をあてて両国政府の政治的・社会的側面を描いた『東京ローズ』『日本の陰謀』などの作品があります。今回,イサム・ノグチを取り上げたきっかけを次のように述べています。
 “ある時期から,私のなかでくすぶる問題意識を,ひとりの人物を徹底的に追う手法で書いてみたいという望みをひそかにつのらせた。そして私は,イサム・ノグチという対象に出会った。20世紀において激しく変動した日米史を身をもって生きた,この芸術家の生涯をたどる作業がそれまでのどの作品をもこえる規模となる予感は,はじめからあった"
 優れたノンフィクション作品の魅力は,非常に緻密な取材をもとに事実を執拗に明らかにしていく過程にもあります。“日米混血の息子イサムを,国や地域の枠を越えて「人間の気持ち」を表現する「越境者」に育てたいと願った。生まれついた宿命である多様性こそを武器とし,世界のどこでも通用する人間に育てたかった"という母レオニーの言葉「越境者」を機軸として,イサム・ノグチに生前かかわった人たちへのインタビューを通じて,日系人として複雑な性格をもつイサムを描いています。
 “帰属性の希薄さこそ,イサムの最大の強みであり,どこかに所属したいという欲求がいつもついてまわった。その帰属への願望がイサムの創造の原動力となってきた。アメリカ人にも日本人にも心からなりえないことを予感しつつ,見た目は「ノマド(遊牧民)」のような開放性で,イサムは「彫刻とは何か」をテーマに,自分自身への旅をつづけた。その生き方の避けがたい結果として,イサムはつねに極度に孤独であった"(本書より)
 この本を私は,私のアメリカ留学のきっかけを作ってくれたニューヨーク医科大学泌尿器科George Nagamatsu教授のことを思い浮かべながら読みすすめました。Dr. Nagamatsuは日系二世で,ちょうどイサム・ノグチと同じ年代を生き,日系人収容所の経験をもっていました。“一人の人間のなかに,日本とアメリカという二つのものが住んでいるので,そのどちらかにいると,一方が欠けてしまって淋しくなる。70歳を目前にしていまだ彷徨する心を,イサムは,日本はいつきても懐かしいが,滞在が長引くと落ち着かなくなるとも語った。アメリカに帰ると,やっと現実にもどったような感じになる"(本書より)という気持ちを,たびたび来日するDr. Nagamatsuも抱いているのではと推測しました。
 本書のもう一つの魅力は,“建築と庭園の,庭園と彫刻の,彫刻と人の,人と集団社会の,それぞれが互いに,他と密接に関連しあわねばならぬ。そこにこそ新しい美術家の倫理があるのではなかろうか"というイサムの信念を通じて日本庭園や建築の独創性を再認識できることにあると思います。

 “有限の空間であっても無限の広さを感じさせ,人間が住んでいるというよりも,人間の精神が住んでいるというのが日本の庭のもつ空間に思われた"(イサム・ノグチ)