楽園のカンヴァス

楽園のカンヴァス

楽園のカンヴァス

臨床看護2012年9月号 ほんのひととき 掲載
“画家を知るには、その作品を見ること。何百時間もかけて、その作品と向き合うこと。そういう意味では、コレクターほど絵に向き合い続ける人間はいないと思うよ。キュレーター(美術館学芸員)、研究者、評論家、誰もコレクターの足もとにも及ばないだろう。ああ、でも、待てよ。コレクター以上にもっと名画に向き合い続ける人もいるな。誰かって? 美術館の監視員(セキュリティスタッフ)だよ”(本書より)

今回は夏休みから秋にかけて、各地の美術館で催される展覧会に行こうと思っている方々へお勧めの本を紹介します。第25回山本周五郎賞を受賞した『楽園のカンヴァス』です。表紙にはニューヨーク近代美術館(Museum of Modern Art: MoMA)で最も人気のある絵画作品のひとつであるアンリ・ルソーの『夢』の絵が描かれています。
私は今年5月にニューヨークへ旅行しましたが、そのときに訪れたMoMAでたくさんの人々がこの絵の前にいたことを思い出します。美術の教科書で見た方も多いと思いますが、原作を目にすると熱帯の原生林に引き込まれるような不思議な魅力、魔力をもっていました。
読み始めると倉敷の大原美術館がまず出てきました。私の最も好きな美術館の一つで、岡山で学会があるときには必ず学会の合い間を縫って(笑)、時間が許すかぎり美術館のなかをゆっくり歩き回ってきました。絵の解説や歴史を知らないでもすぐに非日常の世界に入り込めるような、贅沢な時間を味わうことができる素晴らしい美術館だと思っています。
本書は、美術館の人間模様、絵画鑑定、さらには展覧会企画の裏側まで今まで知らなかった世界へと、ミステリータッチでぐいぐいと読者を引き込む巧みな構成で描いています。「この物語は史実に基づいたフィクションです」と巻末に著者の原田マハさんは書いています。原田さんは岡山市出身で、東京都内の美術館の設立、MoMAへの派遣勤務の経験があり、さらにキュレーター、カルチャーライターの経歴があるそうです。
本書の舞台となった倉敷市大原美術館、ニューヨークのMoMA,さらにスイス・バーゼル、さらにルソー、ピカソが活躍していた頃のパリと世界中の街々が活き活きと描かれているのも、原田さん自身の経験がもとになっているのでしょう。
“初めて訪れる都市に行けば、すぐにその町のどこかにある美術館へ出かけていこうとしたんです。アートは私にとって、世界中、どこででも待っていてくれる友だち、そして美術館は、『友だちの家』みたいなものだったのです”(本書より)という主人公・織絵の言葉はたぶん原田さん自身の率直な気持ちでもあり、美術館が「友だちの家」という表現は私自身の旅での経験からもまさにその通りと思いました。
さらに原田さんが美術館という「業界」に身を置いた経験からは、名作にめぐり合う僥倖について次のように描いています。
“美術品との出会いは偶然と慧眼に支配されている。世に知られた作家の最良期(プライムピリオド)とは、えてしてそう長い期間ではなく、その時期に制作された作品の数は限定的である。だからプライムピリオドを謳っている作品には贋作の可能性がつきまとうのだ。名前や制作年のような、いってみれば「記号」に頼るのではなく、作品そのものの力と「永続性」を見抜く慧眼を見る者が持ってるか、そしてその慧眼を持ちえた者が、作品を獲得するのに十分な財力を保持しているかどうか?偶然、慧眼、財力。名作の運命はこの三つの要因で決定される”(本書より)
この小説がもし映画化されるとすれば、すばらしい美術館巡りがスクリーンの上でもできそうですね。

“甘き夢の中 ヤドヴィガは
やすらかに眠りに落ちてゆく
聴こえてくるのは 思慮深き蛇使いの笛の音
花や緑が生い茂るまにまに 月の光はさんざめき
あでやかな調べに聴き入っている 赤き蛇たちも”
(夢 1910年、アンリ・ルソー自身が最晩年の代表作に添えた詩)