いのちを守る 東日本大震災・南三陸町における医療の記録

いのちを守る―東日本大震災・南三陸町における医療の記録

いのちを守る―東日本大震災・南三陸町における医療の記録

臨床看護2012年6月号 ほんのひととき 掲載
“地域の全医療機関が壊滅的な被災をしたにもかかわらず、ほかの地域に比べるとはるかに早く医療機関の再開と自立を果たした南三陸町の災害医療は、特記されてしかるべきである。(中略)千年に一度、あるいは未曾有といわれるような程度の大災害に対しての今回の災害対応の記録は、この大きな課題を将来的に解決する1つの鍵となるのではないだろうか?” (本書 はしがきより)

東日本大震災から1年以上がたちました。しかしメディアで報道される復興・支援の状況からは、被災された地域の方々にはまだまだ長い道のりが待っているようです。日本医師会雑誌(平成24年4月号)でも「特集 災害医療〜東日本大震災から学ぶこと」が組まれ、DMAT,JMAT活動の経験からの課題、避難所における医療と保健、被災者のメンタルヘルスケア、さらには在宅酸素療法、透析患者の緊急医療対応など多方面からの検証が行われています。医師のみならず、薬剤師、行政担当者などからの貴重なデータ、提案も盛り込まれていて、強い支援の意気込みが伝わってきました。
ただし、この医師会雑誌の特集はおもに医師会長、大学教授、病院長など言わば「上から目線」の記事が主体でした。ちょうど読み終えたときに、友人から本書『いのちを守る 東日本大震災南三陸町における医療の記録』を紹介してもらいました。編集の西澤先生は南三陸町にある公立志津川病院勤務で、震災後の同診療所で医療総括本部を取り仕切った内科医です。杉本先生は国士舘大学体育学部、大学院救急システム研究科勤務、鵜飼先生は、NPO法人災害人道医療支援会(HuMA)/兵庫県災害医療センター勤務されている方です。
編者の方たちは、震災直後の医療現場の記録を医師・看護師からだけでなく、保健師・薬剤師・救急救命士・医療事務、全国からかけつけた支援グループ、さらにはイスラエルからの医療支援チームの総括(英文、翻訳つき)にいたるまで短期間に集めて、記憶が薄れないうちにしかできない第1級資料としての本書を編集されています。
本書の第1章「被災地からの報告」では、南三陸消防署救急隊隊員の方々の手記、病院の4階まで津波に襲われたときに志津川病院に勤務していた菅野先生の緊迫感あふれる記事など、まさに「現場の目線」が数多く掲載されています。
“大津波に襲われた絶望的な状況のなかで、私たち公立志津川病院のスタッフにできたことは、まさに寄り添い支えることのみであったと言えるかもしれない。普段の医療の中で大切に思っていた気持ちやプロフェッショナルとしての自覚が、何もないなかで支えあう最後の希望となったのではないか”(本書 「津波に襲われた志津川病院〜そのとき」 菅野武医師の報告より)
この本を読みながら、記録の持つ大事さについて以前この欄で紹介した『三陸海岸津波』(吉村昭著)を思い出しました。
“徹頭徹尾「記録する」ことに徹している。情緒的な解釈もしない。圧倒的な事実の積み重ねの背後から、それこそ津波のように立ち上がってくるのは、読む側にさまざまなことを考えさせ、想像させる喚起力である”(『三陸海岸津波』のあとがきより)
本書を読み終えたときに、日常診療を支えている医療現場のスタッフ、行政、そして国内外のまさに「絆」の大切さが、災害医療の現場という非常時には顕在化することを強く感じました。そして巻末に本書で唯一エッセイとして取り上げられた冨岡譲二先生の一文は、本書を編んだ方たちの声を代弁していると思います。
“目の前に津波に飲みこまれそう患者さんがいて、自分だけが逃げることは果たしてできるのだろうか?実際、雄勝病院の医療スタッフは逃げなかった。見通しが甘かったのかもしれない。しかし、そのことをどう評価していいのだろうか?自分は彼らを責められるのだろうか?自分だったらどうした?”(冨岡譲二)