末裔

末裔

末裔

臨床看護2011年9月号 ほんのひととき 掲載
“鍵穴はどこにもなかった。
鍵穴があらまほしき場所にないのだった。
鍵は手の中にある。しかしその鍵が受け入れられない。
鍵穴だけが消えてしまったのだった。富井省三は、閉め出された。
家に入れなかったら、俺の居場所はどこにあるのか。明日までどうやって時間を過ごせばいいのか。
なんで俺がこんな目に遭わなければならないのだ”(本書より)

夏休みの緑陰読書にお奨めの本を紹介します。カフカの『変身』を思い起こすような書き出しの、絲山秋子さんの長編小説です。
主人公の「富井省三」は58歳の地方公務員、定年間際で奥さんに先立たれ、認知症の母親は介護施設に、子どもたちは独立して、世田谷に長年住んできた自宅にひとり住まいのいわゆる「単独世帯」の男性です。ちなみに最近の人口動態統計調査では、全国約5000万世帯のうち、単独世帯は約1400万世帯(28%)だそうです。定年前後で妻に先立たれた独身の公務員は、いまの社会では家族小説のモデルになりやすいのかもしれません。
本の帯の紹介には「家族であることとはいったい何なのか。父や伯父の持っていた教養、亡き妻との日々、すべては豊かな家族の思い出、懐かしさが胸にしみる長編家族小説」と書かれていました。書き出しの一文が上記に引用した「鍵穴」で、近くの本屋で立ち読みして、ついつい引き込まれてしまいました。
“図書館の隣の喫茶店でやっと冷静になり、肘をついてタバコを吸いながら省三は考えていた。
俺は家に入って一体何がしたいのか。(中略)
家とは何か。ただ俺がひとり格納されるだけの装置なのか。
次々と人が出て無人となった家は、そうだ、言うなれば遺跡のはじまりである。小さきパルミラ、小さきカッパドキア、小さきナン・マドールである”(本書より)
この設定からは、昨年本欄で紹介した『リア家の人々』(橋本治・著)を思い起こしました。
“50代という薄明のときを、進むつもりなくただ歩いていた。自分のありようを知ろうとして足許を見ても、それを教えてくれる影がない”(『リア家の人々』より)
私はいま50歳代半ばにいて、本書の主人公のような「単独世帯」の経験もしました。つい家族をテーマとした小説を見ると買い求めてしまいます。どちからというと暗い小説も多いのですが、そのなかで本書は非常にユニークな話の展開と、大人のお伽噺のようなユーモラスな登場人物、動物、さらには植物がでてきます。
家からはじき出された主人公がふらつく舞台が、新宿、世田谷、川崎、伯父の住んでいた鎌倉、そして先祖代々の信州佐久と広がりがあるのも魅力です。題名の『末裔』の由来もこの遍歴から徐々に明らかになってきます。
「家庭を顧みることのなかった省三は家族がバラバラになった現実を思い、やがて自分のルーツをたどって信州佐久へのドライブへ向かう中年男の孤独な胸のうちを絲山さんは、どこかユーモラスで温かな筆致で描いている。根無し草になったような省三の日々は、つながりを失った社会で暮らす読み手の心の中で乱反射する」と書評欄にあったのもうなずけます。
本書にはさらに妻に先立たれた男性の心のケアについて、絲山さんからのアドバイスがさりげなく書かれています。
“部屋の中をぐるぐると歩き、遂に省三はやめていた習慣を再開することにした。デスクの引き出しを開けると、そこに便箋があった。かばんの中からボールペンを取りだして、眉間にぎゅっと力を入れてから書き始めた。
「こうやって、おまえに手紙を書いていると、すごく落ち着くよ。前は、手紙を書くたびに、泣いていたが、涙もろくて、自分でもどうしようもなかった時期は、過ぎたようだ。」(中略)亡妻への手紙を書き終えて封筒に入れ、省三は満たされた気分になった”(本書より)
小説の中に自分の人生の位置づけを求めるのは、それぞれの世代で異なると思います。自分の年齢に合わせてもいいし、あるいは両親、さらには祖父母の世代を描いた小説を読むことは、日々の医療現場で患者さんへの的確な思いやりにつながるとあらためて本書を読んで思いました。