湿原

湿原 (上)

湿原 (上)

臨床看護2007年10月号 ほんのひととき 掲載
“氷は一切の虚偽を含まず,真っ平で滑かで単純でそれだけだ。氷とおのれだけの世界,それは何と自由で喜ばしいのだろう。直線,曲線,ジグザグ,前進,後進。和香子が来た。短いスカートの下で形のよい長い脚が躍動している。たちまち飛鳥さながら厚夫を追い越していった”(本書より)

 前回の『カシオペアの丘で』に引き続き,北海道を舞台とした私の愛読書をご紹介したいと思います。精神科医でもある作家・加賀乙彦さんの20年前の大作です。
 以前,この欄では加賀さんの『生きている心臓』をご紹介しました(1996年11月号)。交通事故で脳死状態になった医師からの心臓移植がテーマで,当時,臓器移植法案の審議が行われた時代を背景に,脳死移植の議論をフィクション小説の中に採り入れた内容でした。
 『湿原』は1985年刊行で,私はこの本を文庫本で読みました。医学生時代に旅行した釧路湿原,阿寒,霧多布,釧路,厚岸などを舞台としたこの小説を懐かしい想いで一気に読み通しました。
 この夏に,ふらっと阿寒,釧路をドライブ旅行する予定を立てました。そして本棚に飾っておいた上下2冊の単行本をとりだしました。この本をはじめて読んでから20年目,そして学生時代に旅行してから30年目,この小説の時代設定が40年前という節目の意識もありました。
 “60年代末の学園紛争のさなか,暗い過去のある男・雪森厚夫が美しい女学生・池端和香子に出会う。大都会と北海道の野原に生きる二人のうえに恐るべき運命が…”という本の紹介と「1000枚の大作,大佛次郎賞受賞作品」というパンフレットが入ったままの本を読み返し始めると、懐かしさよりもこの小説のみずみずしい印象が蘇ってきました。
 “雪に覆われた丘は,腹を銀や白や灰色に光らせた牧場らしい木柵に区切られながら,まるで呼吸でもするように膨れたり萎んだりしていた。
 丘も森も、広くて奥深くてどこまでも同じようで,和香子が知っている関東の丘陵や雑木林とまるで違う。荒々しくて,人を寄せ付けぬ様子で,その反面淋しげで人なつっこい感じもする。和香子は,雪森厚夫に似ていると思い,向いの席に目を向けた”(本書より)
 20年前には,精神病院への入退院を繰り返していた女性主人公の和香子に興味をもって読んでいました。今回は49歳の雪森厚夫の生き方に焦点がうつってきました。私がその年齢を通り越したからかもしれません。
 本書のテーマの一つは「冤罪」です。不確かな証拠のままの思い込み捜査というと前時代的で,ましてや医療とは無関係のようにみえます。
 しかしつい最近も,2つの冤罪事件を反省して最高検が検証・対策を新聞公表しています。
 “「証拠が不十分だったにもかかわらず自白の信用性を検討していなかった」とし,威圧的な取り調べがあったことや裏付け捜査が不十分だったこと,公判が長期化して身柄拘束期間が最大395日に及んだことも問題点としてあげた。(中略)その再発防止策としては,徹底的に証拠を収集し,容疑者の弁解も踏まえて捜査当局には不利益な証拠(消極証拠)がないかを多面的に検討する”(2007年8月10日夕刊記事より)
 この記事と合わせて本書を読むと,思い込み捜査が40年前とかわっていないこと,そして私たちの医療現場でもときに起きうる診断・治療の「思い込み」に相似していることに「ひやり・はっと」する思いです。
 この本のもうひとつの大きな魅力は,野田弘志さんの装画です。上巻の表見開きには釧路湿原,裏には機動隊に放水される東大安田講堂,下巻の表には東京拘置所のコンクリートの壁,そして裏には釧路湿原を飛び立つ丹頂鶴の群れ,新聞連載の時にはもっと多くの装画が描かれていたのだろうなと想像しながら読むのも楽しいと思います。
 もちろん,この夏の旅行には本書,上下2冊を携えていきました。次に機会があったら流氷の季節にこの本と旅したいと思っています。