「歌」の精神史

「歌」の精神史 (中公叢書)

「歌」の精神史 (中公叢書)

臨床看護2007年4月号 ほんのひととき 掲載
“いま,叙情が危ない。われわれのこころの世界が乾き上がり,砂漠化しているのではないか。叙情を受け容れる器が損傷し,水漏れをおこしているのからではないか。
 叙情とは魂の躍動をうながし,日常の言葉を詩の形に結晶させる泉のことだ。それが枯渇し危機に瀕しているのは,時代が平板な散文世界に埋没してしまっているからである。歌の調べが衰弱し,その固有のリズムを喪失しているからだ”(本書まえがきより)

 5年前に『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝・著)がベストセラーになり,この欄でも取りあげました。(2002年8月号)
 “古い言葉遣いには,現代の日常的な言葉遣いにはない力強さがある。身体に深く染み込むような,あるいは身体に芯が通り,息が深くなるような力が,このテキストに収めた言葉にはある”
 斎藤さんがとりあげたテキストには,万葉集枕草子平家物語,般若心経,などから早口言葉,歌舞伎の口上など多岐にわたっていました。
 その後も続編や,鉛筆による筆写帳まで出版されて,一つのブームの嚆矢となった本でした。
 今回,ご紹介する『歌の精神史』は昨年夏に刊行されました。著者の山折さんは国立歴史民俗博物館教授,国際日本文化研究センター所長などを歴任した宗教学,思想史の専門家です。『さまよえる日本宗教』『近代日本人の美意識』など,古典が嫌いだった私でもファンになった名著があります。
 この『歌の精神史』も固い本かなあと思っていたのですが,“第1章 日本演歌論序説 美空ひばり尾崎豊とともに消えた日本の「歌」”を読んで引き込まれてしまいました。
 そのなかで“空を飛ばなくなった歌”という面白い表現がありました。
 “歌が空を飛ばなくなったと申し上げたことがあります。ヘッドホンで聴く歌は聴くにあらず,点滴であると危惧したこともあります。そして近くには,ミュージックはあるがソングはない,です。とくにソングはないということは言葉がないということで,これはいささか,はやりすたれだけと云っていられない気持になります”(阿久悠『書き下ろし歌謡曲』より)
 歳をとるにつれて最近徐々に私も演歌にこころ揺さぶられるようになりました。「どうしてかなあ」と思っていたときに,この本はついうなずいてしまう内容を持っています。歌によって「いつのまにか人生に思わぬ彩りをそえ,闇に覆われている心の襞をふくらませていく」というゆったりとした時間をもてるようになったからかもしれません。
 そして演歌の大ファンでもある山折さんが,森進一「北の蛍」を取りあげて,短歌,和歌,さらには親鸞の「和讃」,後白河院の「今様」(梁塵秘抄)との関係まで及んでいる文からは,山折さんがきっと酒を飲み演歌を聴き入りながら,時空を超えた含蓄を傾けているであろう姿が浮かび上がってきます。
 “演歌の感傷は人生そのものまでをも感傷の涙によって曇らせるようなことはしないだろう,と私は思う。演歌の感傷はその外見の表情とはうらはらに,いつもかならず実人生の輪郭をしっかりその胸のうちに抱え込んでいるからである。演歌にはセンチメンタリズムとリアリズムの奇妙な混合,味のある共存関係がみとめられるのである”(本書より)
 紅白歌合戦になぜ演歌が多いのか,山折さんの説明に思わず納得してしまいます。その一方で,山折さんはいまの叙情性に欠ける短歌や俳句ブームをばっさりと切りつけています。
 “大小の新聞を問わず,歌壇,俳壇,それに川柳壇が花盛りである。歌はまさに隆盛のさなかにある。だが,その歌の肉声がこちらの胸に響くようにとどいているのかといえば,必ずしもそうではない。生の肉声はむしろ陰にこもって聞きとりにくい。子守歌が聞こえなくなった。童謡も学校唱歌があまり歌われなくなった。そんな風潮がどんどん加速していっている”
 どうも斎藤孝さんと同じような結論になっているようですね。