なぜ、かくも卑屈にならなければならないのか

臨床看護2009年4月号 ほんのひととき 掲載
“本書の中には、夜郎自大だと批判されたり、医師の風上にも置けぬと糾弾されたりする内容もあると思います。そういった非難は覚悟していますし、表現や内容を忙しさのせいにするつもりはありません。ただ言えることは、私は自分の気持ちに嘘をつかないで書いた、ということだけです。非難されることがあるとすれば、それは私個人の心の未熟さであって、私と同じような環境で忙しく働いている医師や医療従事者の方々ではないことは明確にしておきたい点です”(本書 まえがきより)

本誌で2001年2月号から2008年1月号まで7年間、『ほんのひととき』の隣りのページで『ドレスのナース Tシャツのナース』を執筆されていた野笛涼先生が2007年9月に永眠されて、はや1年半たちました。
「今のままの患者・医療者関係でいいのか、なんとかしたい、何とかしなければ…」と、本気で本音を語っていたエッセイを毎月、楽しみにされていた読者の方も多かったと思います。
私も野笛先生の威勢のいい啖呵を切るような論調、テンポの速い文章からうける納涼剤作用を、毎回ここちよく感じて読んでいました。
健啖家でもあった野笛先生とは2度ほど2月の学会の折に上京された際に、横浜中華街で賑やかな宴をご一緒した思い出があります。
“40代前半から50代半ばまでの男性5人と女性2人。知り合い、親友、同僚。それまで名前は互いに知っていても会うのは初めての関係、電話の連絡だけで会うのは初めての初対面同士、等々。唯一のつながりは小誌(臨床看護)。ひょんなことから実現した港町での会食。紹興酒に緊張、年齢差、肩書きのすべてが溶け出して、その日が誕生日と告白した涼くんのためになんどもグラスを合わせ・・聖バレンタインデイの宴”(2003年4月号本誌「史」さんの編集後記から)”
その後、私自身が家族の病気看病のために落ち込んでいたとき、野笛先生から「つらくて原稿が書けなくなったら、いつでも“ほんのひととき”の代筆をしてさしあげますよ」と励ましのメールをいただいたことがありました。そのさりげない温かさをいまでも強く思い出します。
この『ドレスのナース Tシャツのナース』連載当初の8年前には、そんな過激な表現をしなくてもいいのではと思って読まれた読者の方も多かったと思います。しかし現実には、野笛先生の警鐘以上に医療環境はさらに悪化して「医療崩壊」として広く危惧されるようになりました。本書であたらめて読み返すと「あの頃はまだよかった」と思われるかもしれません。
そしてさらに本書の後半では、連載を始めて4年目の2005年から野笛先生自身の胃癌との闘病生活が始まり、翌年の再発、抗がん剤治療、高カロリー輸液をしながら、徐々に体力が落ちて行くご様子が読み取れます。それでも患者さんのため、病院スタッフのため、先生のご家族のために必死に生き抜こうとする姿が赤裸々に伝わってきます。改めて、先生の遺稿集とも言える本書を隣人の一読者としてみなさんにお勧めしたいと思います。

“胃癌の腹膜再発と診断され、3月には鎖骨下静脈に点滴用のポートを植え込まれ、栄養補給と抗がん剤の点滴を行うことになった。つらい闘病生活が続いたね。しかし、君はこんな状態の中でも一度たりとも主治医の僕に弱音をはいたり、愚痴や不満をぶつけることはなかった。ただ、幼い子供たちを後に残して逝くのが心残りだともらしていたね。
 4月クラブリーグの試合に、君は運動着を着て現れた。雨模様だったこともあり、まさか試合には出ないだろうと思っていたら、後半の15分に交代出場してきた。得点こそあげれなかったものの、君はダイビングヘッドも試み、常に得点をねらっていた。僕は、ドクターストップをかけたかったが、君の熱意には降参した。試合後、中心静脈ポートをいれてサッカーの試合に出場した君は、ギネスブックものだと、みんなで賞賛した”(偲ぶ会での主治医から「野笛先生へ送る言葉」より)