「待つ」ということ

「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)

臨床看護2006年12月号 ほんのひととき 掲載
“意のままにならないもの,どうしようもないもの,じっとしているしかないもの,そういうものへの感受性をわたしたちはいつか無くしたのだろうか。偶然を待つ,じぶんを超えたものにつきしたがうという心根をいつか喪ったのだろうか。時が満ちる,機が熟すのを待つ,それはもうわたしたちにはあたわぬことなのか…”(本書まえがきより)

 植田正治さんの砂丘を舞台とした写真が表紙にレイアウトされた本を書店の店頭で見かけました。題名は『「待つ」ということ』,哲学者の鷲田さんの新刊でした。
 この欄では2回ほど鷲田さんの『「聴く」ことの力』(桑原武夫学芸賞受賞作)を紹介しました(1999年12月号,2005年9月号)。医療スタッフによるケアについてはじめて考えたことがきっかけで書かれた『「聴く」ことの力』は,私にとっては日常診療や緩和ケアを病棟・外来でおこなっているとき,そして若いレジデントや病棟スタッフを教育する際には,いつも大きなバックボーンになっている本です。
 本書はその続編にあたります。
 鷲田さん自身も“聴くことの問題は,待つことへの問いへと引き継ぐかたちになった”とあとがきに書いています。
 いわゆる「構造改革」「格差社会」をめぐる議論が渦巻くなかで,医療,介護,育児といった私たちが医療人としてかかわる分野にも大きな波が押し寄せてきています。時間と効率に追われ,ちょっと立ち止まってゆっくりと考えることさえはばかれる風潮のなかにあって鷲田さんの本は,いつも読むうちに心が落ち着いてきます。
 “持たなくてよい社会になった。
 待つことができない社会になった。(中略)
 みみっちいほど,せっかちになったのだろうか…
 せっかちは,息せききって現在を駆り,未来に向けて深い前傾姿勢をとっているようにみえて,じつは未来を視野にいれていない。未来というものの訪れを待ち受けるということがなく,いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする。待つというより迎えにゆくのだが,迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。決めたときに視野になかったものは,最後まで視野に入らない”(本書より)
 本来ならばゆっくりと時間をかけて熟成を待つ,発酵を待つことが求められる教育,家庭のでのしつけ,そして医療・介護分野と,待つことを忘れて短期的な成果のみを追いかけていく傾向を強めている社会全体の風潮との対比をさまざまな文学・哲学書からの引用をはさみながら,鷲田さんはわかりやすくゆったりと文体で描いています。
 本書の中で私がとくに興味をひかれたのは,大きな悲しみにあったときの癒し(グリーフ・ヒーリング Grief healing)についてかかれる一節でした。遺族ケアにもつながる言葉が心に響いてきました。
 “待つことじたいを忘れようとするなかで,立ち止まって,何度も何度もじぶんにこう言い聞かせるほかないのが,忘れがたいことである。
 「忘れてええことと,忘れたらあかんことと,ほいから忘れなああかんこと」
 この腑分けがいつか傷口を被うかさぶたになるまで,ひとはなんどでも立ち止まる。立ち止まりかけて,立ち止まるなとじぶんに言い聞かせる”(本書より)
 きっといつも私たちが日常,無意識に行っていることをこうしてわかりやすい言葉にして目の前にはっきりと示してくれることが,鷲田さんの本の魅力だと私は思います。

 “決心にも,『する』ではなく,『待つ』一面があるのかもしれません,何事かを捨てて空虚な場所を作り,水が満ちてくるように何かがやってくるのを『待つ』とでもいうか,全部を本当に捨てることは不可能ですから,からだを退避させることで,象徴的にすてていたに過ぎないでしょうけれども”(本書あとがきより)