生麦事件

生麦事件

生麦事件

臨床看護2006年11月号 ほんのひととき 掲載
2006年7月31日に作家の吉村昭さんが膵臓がんで逝去しました。享年79歳。
 みなさんの中にも愛読者の方が多くいらっしゃることと思います。私もその1人です。『生麦事件』は8年前に読んで,吉村幕末歴史小説に引き込まれ始めた本です。私の勤務先近くの横浜市鶴見区生麦町で幕末におきた薩摩藩によるイギリス人殺傷という生麦事件は,それをきっかけに起きた薩英戦争によって,幕府崩壊の原動力になったという視点で描かれていました。
 またこの欄では,明治10年代の後半に脚気病の予防に画期的な進言をした郄木兼寛先生(当時海軍省医務局長,のちに東京慈恵会医科大学創始者)の半生を描いた小説『白い航跡』,吉村さんの弟さんが進行性肺癌を患い1年余にわたって壮絶な闘病をする姿と,看病に奔走する吉村さん自身や家族の姿を描いた小説『冷い夏、熱い夏』,そして江戸時代に蘭学・西洋医学が勃興する長崎で活躍した蘭学者松本良順を描いた『暁の旅人』をご紹介しました。
 毎年のように長編小説を書き続けていた吉村さんの突然の訃報と,最後は“尊厳死”だったと新聞でも大きく報じられたことに驚きました。
 いずれ真相が明らかになるのでは思っていた折,月刊誌「文藝春秋」10月号に吉村昭夫人の作家・津村節子さんの「お別れ会挨拶 吉村昭氏の最後」が掲載されました。8月24日に,生まれ故郷の東京・日暮里のホテルラングウッドで執り行われた「吉村昭さんお別れ会」における挨拶全文です。
 それによると2005年1月に舌がんを患い,放射線内部照射をうけるために3回も入退院を繰り返していたそうですが,周囲の人たちには一切知らせずに執筆を続けていました。
 “治療の間に,講談社の「群像」に連載していた『暁の旅人』,朝日新聞連載の『彰義隊』と,ずっと書き続けて推稿を重ね,ゲラの校正をし続けておりました。やはりそれらの仕事があったからこそ,ガンにも耐えられたのではないかと思います。吉村は書斎に入っているときが一番幸せそうでした”(お別れの会挨拶より)
 その吉村さんのエッセイ『師走の小旅行』が新聞に紹介されていました。
 “12月半ばのある日に,自分の生まれ育った日暮里を訪ね,そこから浅草に足を延ばして家に帰るだけという話である。
 淡々と進む話のなかに,ホテルのコーヒーショップで一休みすると,そこがちょうどもと生家のあったところあたりだった,といったエピソードがさりげなく織り込まれている。
 「満足すべき小旅行で,年末の気分を十分に味わった。地下鉄に乗って神田に行き,電車で帰途についた」というほのぼのとした結びで終わる”(清家篤:文の力より)
 ところが2006年2月に放射線で縮小した残存舌がん切除手術をうけるために行った術前転移検査PETで,膵臓がんが見つかり,同月に舌ガンと膵臓全摘術をうけ,3月に退院して自宅療養をしていたそうです。
 7月には全身衰弱と経口摂取不可能になり,皮下埋め込み式ポートによる在宅介護がはじまりました。7月末に“自決”が起きました。
 “亡くなる前日のことでした。夜になっていきなり点滴の管と管のつなぎ目をはずしてしまいました。娘が落ち着いてつないでくれました。
 ようやく一安心していると,吉村は,首の下の皮膚に埋め込んであるカテーテルポートに入れてある点滴の針を,自分の手で引き抜いてしまいました。
 私は呆然として何も出来ず,やがて24時間対応のクリニックから看護師さんが到着したとき,「もう,いいです。もう,いいです」と言いました。娘も泣きながら,「お母さん,もういいよね」と言いました”(お別れ会挨拶より)
 自らの死期の近いことを知って,高価な医薬品を拒み,食事もとらないで亡くなった江戸時代の蘭方医佐藤泰然を題材とした遺作『死顔』のゲラの書き込みには次のように記されていたそうです。
 “医学の門外漢である私は,死が近づいているか否かを判断しようがなく,それは不可能である”
 ご冥福をお祈りしたいと思います。