命の番人

命の番人―難病の弟を救うため最先端医療に挑んだ男

命の番人―難病の弟を救うため最先端医療に挑んだ男

臨床看護2006年8月号 ほんのひととき 掲載
“助かる見込みについて夢見るためには希望がいるのです。でも,いつどんなときも自分を現実の世界に保っておく必要があります。ぼくは確率が信じられないほど低いことは知っています。でも,まだ希望を持っています。そんな小さい確率のために,狂気のように突き進めさせるのは,現実主義と希望の組合わせなのです"(本書より,兄ジェイミー・ヘイウッドの言葉)

 筋萎縮性側索硬化症,一般にALSと略称されるもので,米国ではこの病気にかかった野球選手の名をとってルー・ゲーリック病とも呼ばれています。運動神経が徐々に死んでいくというおそろしい病気で,最初は四肢の麻痺から始まり,歩行障害,発語障害,嚥下障害などを経て,最後には呼吸障害のために,人工呼吸器を用いないかぎり,発症後2〜4年で死亡とされています。経過を通じて患者さんの意識はしっかりと保たれています。人口10万人あたり数人の発病が見られ,日本にも約5,000人の患者がいるとされています。
 本書の主人公スティーブン・ヘイウッドは1999年に29歳でALSを発病しました。当時もそして現在も有効な治療法はなく,進行をわずかに遅らせる薬しかありません。
 エンジニアであった兄のジェイミーは,弟の診断を聞いてすぐに職を投げ打ち,独力でこの病気に関する情報を集め,原因が遺伝子の変異であるという確信を持ち,遺伝子治療という実験的医療で弟の命を救うプロジェクトを立ち上げました。
 本書はこの兄弟の闘病の足跡を詳細に取材したノンフィクションで,遺伝子治療を中心に先端医療にまつわる最新の医学的知見と,ポスト・ゲノム時代の医療が私たちに与える希望と怖れの物語です。
 遺伝子工学が医療的な実践として具体化されるときに生じる際の諸問題を中心に据えて,生命倫理のあらゆるテーマが登場してきます。
 ちなみに本書の原題His Brother's Keeperは『旧約聖書』の創世記の有名な言葉からとられたもので,アダムとイブの長子であるカインと弟アベルの物語に由来しているそうです。
 著者のジョナサン・ワイナーさんはサイエンス・ライターで,ガラパゴス諸島で今なお進む生物進化を描いた『フィンチの嘴』でピュリッツァー賞を受賞,さらに分子遺伝学者ベンザーを描いた『時間・愛・記憶の遺伝子を求めて』で全米書評家協会賞を受賞しています。
 二人の兄弟と家族を取材しているちょうどその時期を同じくして,ワイナーさん自身の母親が「ルビー小体痴呆」という特殊な脳免疫疾患をわずらっていく個人的な苦悩も錯綜して描かれています。
 さまざまな読み方ができる奥行きの深い内容を持っていると思います。
 たとえば筋萎縮性側索硬化症というもっとも苦しみを伴う疾患の診断を告げるときの医師と,それを受ける患者の気持ちを描いた場面があります。
 “私は医者を観察する。彼が病人を観察するのと同じ熱心さで,私は彼に怖れを見,私は彼を怖れる。私は彼の怖れに追いつき,追い抜かし,彼よりも速く進む。なぜなら,彼は速度を落とすからだ。私はさらに強く怖れる。なぜなら,彼は自分の怖れを隠すからで,私はそれをさらに鋭敏に見てとる。なぜなら,彼は私にそれを見せようとしないからだ"(本書より)
 訳者の垂水さんの文体も非常に簡潔で読みやすく,難しい内容を的確に伝えていると思います。
 あとがきで垂水さんが“本書は科学啓蒙書という側面を持ってはいるが,かなり文学的な本である"と指摘を読んで,私は2年前にこの欄で紹介した,『冷い夏、熱い夏』(吉村 昭・著)を思い起こしました。進行性肺癌をわずらい1年余にわたって壮絶な闘病をする弟の姿と,看病に奔走する兄の吉村さん自身や家族の姿と同じような深い感動を,ヘイウッド兄弟の物語から読みとれることと思います。