ニュートンの海 万物の真理を求めて

ニュートンの海―万物の真理を求めて

ニュートンの海―万物の真理を求めて

臨床看護2005年12月号 ほんのひととき 掲載
“リンゴをニュートン伝説に植えつけるのは,ずっと詩人の役割になっている。詩人こそ太古のリンゴの誘惑の力,罪と知識,知識と霊感のあいだにはたらく引力のことを,よく承知していたにちがいない。「リンゴによって人類は堕落した。そしてリンゴによって高みにのぼる」とは詩人のバイロンの言葉である"(本書より)

 ニュートンと聞くと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか? 「木からリンゴが落ちるのを見て重力を発見し,万有引力の法則,力学の基礎を作った」と理科の副読本で読んだことでしょうか?
 さらに高校時代の物理で,慣性の法則運動方程式,プリズムで光を分解して白色光が多様な波長の光が混ざったものであるという光学の研究,さらに微分法の発見など,現代科学の基礎を築いた天才という話を聞いたことを思い出す方もいるかもしれません。
 私も医学部に入学そして卒業してからは,ニュートンの数式や物理法則にじかに触れることがほとんどありませんでした。でも宇宙論や,地球・惑星の歴史,地球生命の進化と宇宙とのかかわりというジャンルの啓蒙書を読むことは好きで,この欄でも何冊か紹介してきました。
 昨年とりあげた『磁力と重力の発見』は近代科学の成立の謎を探るという問題意識のもとに,古来以来,近代初頭に至るまでのヨーロッパにおける力概念の発展,磁力と重力の発見過程を歴史的に追跡した本でニュートンの登場までを描いていました。
 今回ご紹介する『ニュートンの海』は,今から約300年前,日本では江戸時代に人類の世界観・自然観を一気に変貌させたアイザック・ニュートンを単に科学上の業績だけでなく,生まれ育ちから同時代の人間社会とのかかわりまで,いわばその人となりを丹念に描いた評伝です。
 海という邦題は,“「私という人間が世間の目にどう映っているかは知らないが,自分では海辺で遊ぶ子どものようなものだとしか思えない」と,ニュートンは死ぬ前にいっている。「ときに普通よりなめらかな石ころや,きれいな貝殻を見つけたりして,それに気をとられているあいだにも,眼前には真理の大海が,発見されぬまま広がっているのだ」"(本書より)からとられています。
 著者のグリックさんはニューヨークタイムズで科学欄を担当していたサイエンスジャーナリストです。人類の科学史に革命的な変化をもたらしたニュートンという一人の人間が,孤独な少年時代からしだいに科学を育てていく過程に光を当てるために,グレックさんは手に入る限りの膨大な資料を綿密に重ね合せ,そこからおのずと浮かび上がってくる,ありのままのニュートンの姿を簡潔でわかりやすい文章で描写しています。
 “彼が生を受けたのは暗黒と魔術と混迷の支配する世界。親らしい親も恋人も友だちもなく,その異様に純粋で何かに取りつかれたような生涯を通じ,袖振り合った偉人とは辛辣な論を闘わせ,自らの研究はひた隠し,少なくとも一度は狂気すれすれの境をさまよってさえいる。それでもなお基本的な人知の核となるものをこれほど多く発見してのけた者は,いない。光と運動という古くからの哲学的謎を解き,事実上重力を発見したのも彼である"(本書より)
 本書の魅力は,ヨーロッパの著者ならばたぶん1000頁以上のボリュームになるほどの内容を,本文注釈文献をあわせて300頁余のコンパクトな本のなかで素晴らしい翻訳と相まって,非常にきびきびしたテンポのある文体で読ませてくれる点にもあります。
 医学とはまったく違う世界と思われるかもしれません。しかし優れた科学史の啓蒙書を読むことによって得られる視点は,現代の行き過ぎた科学に振り回されない判断力・見識をもたらしてくれると思います。