暁の旅人

暁の旅人

暁の旅人

臨床看護2006年1月号 ほんのひととき 掲載
“ポンペは,目に涙をうかべ,「私ハ帰国シ,貴方ハ江戸ヘ戻ル。私ノ知ルカギリノ医術ハスベテ伝エ,貴方ハ第一級ノ医師ニナッテイル。日本滞在中,貴方ナクシテコノヨウナ成果ヲアゲルコトハデキナカッタ。心カラ感謝シテイル」と言って,良順の手を強くにぎりしめた。
 良順も涙ぐみ,「医術伝習ヲシテクレタ貴方ハ,恩人デアル。貴方ニ会エタコトハ,コノ上ナイ幸セデアッタ」と言って,頭をさげた"(本書より)

 私は医学の歴史小説を読むことが好きで,今までも何冊かをこの欄で紹介してきました。そのきっかけになったのは,医学生時代に読んだ司馬遼太郎さんの『胡蝶の夢』でした。
 この小説は,江戸時代・幕末にオランダ医学が長崎から広まり始めた時代を背景にしています。蘭学者松本良順とその弟子島倉伊之助を主人公にして,長崎で日本に初めて体系的に西洋医学を紹介したオランダ人医師ポンペとの交流を主軸に物語が進んでいきます。その中に江戸時代には漢方医学一辺倒であったなかから,蘭学・西洋医学が勃興する過程を歴史的事実にそって描かれていました。
 今回紹介する『暁の旅人』は同じ松本良順を主人公とした,吉村昭さんの歴史小説です。吉村さんの小説には,医学・医療史をあつかった『白い航跡』『夜明けの雷鳴』『光る壁画』『ふぉん・しいほるとの娘』(いずれも新潮文庫)などがあります。また吉村さんの弟さんが進行性肺癌を患い,1年余にわたって壮絶な闘病をする姿と,看病に奔走する吉村さん自身や家族の姿を描いた小説『冷い夏、熱い夏』を昨年この欄で紹介しました。
 今年5月に刊行された,本書『暁の旅人』が書かれたきっかけを吉村さんは次のように述べています。
 “良順は幕府の医官奥医師で,戊辰戦役で圧勝し江戸に進撃した朝廷軍からのがれ,奥羽に走る。そのように幕府に殉じようとした奥医師は良順のみで,その真率さに人間的魅力を感じるとともに,長崎でオランダ医官ポンペについて実証的な西洋医学を,日本人としては初めて身につけた人物であることに注目した。(中略)
 良順の人間としての生き方にも,私は魅せられた。新撰組組長近藤勇,副長の土方,そして多くの外国人との交流などにそれが顕著な形としてあらわれ,良順を鏡にそれらの人物の像がくっきりと浮かび上がっている"(本書あとがきより)
 本書を読み始めたときには,つい司馬作品と比較して,歴史的事実を淡々と描く吉村さんの文章にそっけなさも感じました。『胡蝶の夢』で取り上げられていた幕府の漢方医からの執拗な妨害,オランダ語習得の苦労など,良順の内面にまで立ち入って細密に描かれていた事件も,本書ではあっさりと描かれています。
 しかし,本書ではオランダ医学を通じて西洋医学が次第に社会に受けいれられていく過程が,より詳細で正確な医学史資料をもとに記されています。
 とくに幕末のコレラ流行に対するポンペの的確な対処方法の指導が死亡者数を減少させて幕府の信頼を得ていく姿,良順が新撰組近藤勇に見込まれて京都の屯所に赴いて行った衛生指導,さらに会津戦争での負傷した兵隊の体内から銃弾をオランダ式器具で取り出す指導など,感染・救急医療,衛生医学の先覚者としての良順の足跡と実像が史実から鮮やかに浮かび上がってきます。
 さらに幕末から明治にかけての激動期の波にもまれながら信念をつらぬいて多彩に生きた良順が,維新後家庭人としては痛々しいほどの悲運と不幸に見舞われます。『胡蝶の夢』ではふれられていなかった晩年の良順の姿までも淡々と描く吉村さんの美しい文体からは,再読するたびに新たな感動が伝わってくるようです。

 “良順は人間の一生で得がたい一時期があるといわれるが,自分にとって五年間の長崎遊学が,まさにそれであると思った。
 一歩一歩着実に講義を忍耐強く押し進め,さらに洋式病院の創設まで漕ぎつけたポンペの姿勢は,医師であると同時に人間として学ぶべきものがあった"(本書より)