魂萌え!

魂萌え !

魂萌え !

臨床看護2005年10月号 ほんのひととき 掲載
“若い頃は,歳を取ったら穏やかになると思っていたが,60歳を目の前にした自分の心は若い頃以上に繊細だし,時々,暴力的といってもいいような衝動が湧き起こる。感情の量が若い頃よりも大きくなった気がする"(本書より)

 今年の緩和医療学会に参加して,私にとって新鮮だったトピックスに「家族ケア」「遺族ケア」についての講演がありました。死にゆく患者さんだけでなく,死の看取りを初めて経験する家族,そしてそのあと残された遺族の心のケアをとりあげているスタッフのお話を聞くと,従来の医療から一歩踏み出した流れを感じました。
 ある程度心の準備ができる時間的経過の長い,がん患者さんの看取りでさえ大きな心のケアが必要であることを考えると,突然死や事故死によって伴侶や家族を失ったときの遺族の悲しみや心の動揺は,当事者でなければわからないほど大きなものだと思います。
 平均寿命が伸びて,長い「老後」を迎える中高年にさしかかった時期に突然,伴侶を失ったときにはどんな状況が今の日本で起きうるのか,そんな疑問に答えてくれる小説を今回ご紹介したいと思います。
 著者は,桐野夏生さん,この欄でも以前に99年度の直木賞受賞作『柔らかな頬』をとりあげました。その後は,異形姉妹の葛藤の奇蹟を描いた『グロテスク』や,暴走する女性犯罪者など過激なヒロイン像の小説があります。
 本書『魂萌え!』は,ヒロインが一気にドロップアウトしていく従来の桐野路線とは違って,オーソドックスなストーリーです。
 主人公は59歳の専業主婦の敏子サン。定年退職した夫の隆之サンと「老後」生活に入った矢先に,心筋梗塞で突然死した夫の葬式の場面から小説が始まります。
 “押し付けられたものの中で,最も重いのは生きていくことです。残された人間は,たった一人で老いを生きていかなきゃならない,ということです。老いというはじめての経験を一人で迎えるのは怖いですよ"(本書より)
 悲しみにひたる間もなく,敏子サンには息子・娘との遺産相続問題,夫の隆之の愛人の発覚,長年の友人たちとの不和など,次々にトラブルに巻きこまれていきます。
 “すべてに自信がなくなっていた。自分が糸の切れた凧になって,あてどもなくどこかに飛んでいってしまうか,失速しそうな,不安な気分だった。地上で自分の糸を引いていたのは誰だろう。恙無い日常が当分の間,続くと考えていられた,自分の根拠のない安心感こそが凧の糸を操る手元だったのだろう"(本書より)
 まさに「スピリチュアルケア」が必要な状況に敏子サンは追い込まれていきます。そのときに話し相手や相談にのってくれた友人・知人たちとの会話の機微が,本書の大きな魅力になっています。
 主人公の敏子サンだけでなく「もうじき還暦だしさ,若い人から見たら,老人と思うでしょうけれど,案外気持ちは若いし,体力もある。中途半端な時期なんだよね」という,敏子サンと取り巻く男女さまざまな中高年の登場人物の姿を読むと,いつも病院で目の前にしている患者さんや家族の人たちとの対応に新たな想像力をもたらしてくれると思います。
 小説から教えられることを日常診療に活かすこと,そんなことは小説を読む楽しみからすれば邪道とお叱りを受けるかもしれません。でも,この本はこれから「中高年」になっていく若いスタッフにも,すでに「中高年」になっている私も含めたスタッフにも,心に深く残るものがあると思います。

 “笑いの源は何だろう。自分を憐れんだり,悲しがったりする,負の感情からでているのでは決してない。が,明るく輝くような気分でもなかった。穏やかで平らかな気持ち。これだ,と敏子は思った。独りでいるということは,穏やかで平らかな気持ちが長く続くことなのだ。人に期待せず,従って煩わされず,自分の気持ちだけに向き合ってすぎていく日常。そういう日々を暮らすのは,思いの外,快適なのかもしれない"(立ち直る敏子サンの想い)