「聴く」ことの力 臨床哲学試論

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

臨床看護2005年9月号 ほんのひととき 掲載
“<聴く>というのは,なにもしないで耳を傾けるという単純に受動的な行為なのではない。それは語る側からすれば,ことばを受けとめてもらったという,たしかな出来事である,こうして患者は,口を開きはじめる,得体の知れない不安の実体が何なのか,聞き手の胸を借りながら探し求める。はっきりと表に出すことができれば,それで不安は解消できることが多いし,もしそれができないとしても解決の手掛かりは,はっきりと掴めるものである"(本書より)

 今年6月に横浜で第10回日本緩和医療学会と第18回日本サイコオンコロジー学会が合同で開催されました。会長の垣添先生(国立がんセンター総長)が,「立場を越えて,がん患者さんのために,学問として何ができるか? を考え抜く機会とすることを目論見ました」と述べていた通りに,医師,看護師,薬剤師,臨床心理士ソーシャルワーカー,ボランティアなど多彩な参加者による活気のある学会でした。
 3年前に幕張で開催されたときは,おもにがん疼痛対策について麻酔科の先生方の話が印象に残っていました。今回はサイコオンコロジー学会との合同ということもあって,精神科の先生方の話を多く聴くことができました。
 「卒前・卒後教育の現状と課題」というワークショップで精神科医の卒後教育について紹介がありました。精神科医が緩和ケアチームの一員として参加することが緩和ケア診療加算上必要となって以来,サイコオンコロジー専門家のニーズが高まっていますが,そのコアとなる教育プログラムはまだまだ手探りのようです。また医学生看護学生にどのように教えていくかについて,医局講座制度の狭間で苦労されている大学病院の緩和ケア診療部の先生の本音も聞くことができました。
 学会が終わってから読み直してみたくなった本が,鷲田清一さんの『「聴く」ことの力』です。この欄でも1999年12月に紹介しました。はじめて読んだときには,緩和ケアにかかわるときに心のなかで私自身が漠然と感じながらも掴みきれていなかった「聴くこと」の大事さを目の前に照らし出してくれたという感想を持ちました。
 今回はいままで緩和ケアを必要とする患者さんたちと私が接してきた個人的な経験を,これからどのようにしたら若い医師や病棟スタッフに伝えていけるかを考えながら再読しました。そのなかで印象に残った一節があります。
 “中川米造が『医療クリニック』のなかで引いている緩和ケアをめぐるアンケートの中で「わたしはもうだめなのではないでしょうか?」という患者のことばに対して,あなたならどう答えますか,という問いに対してつぎのような選択肢が立てられている。
 ①「そんなこと言わないで,もっと頑張りなさいよ」と励ます
 ②「どうしてそんな気持ちになるの」と聞き返す
 ③「もうだめなんだ…とそんな気がするんですね」と返す。
 精神科医を除く医師と医学生のほとんどが①を,看護師と看護学生の多くが②を選んだそうだ。精神科医の多くが選んだ選択肢は③である。一見なんの答えにもなっていないようにみえるが,実はこれは解答ではなく,「患者の言葉を確かに受けとめましたよという応答」なのだ"(本書より)
 緩和医療にかぎらず,介護ケアも含めて「ケア」を問い直すときに鷲田さんの真摯な思索を読み直すと,また新たな視点をもつことができると思います。

 “誰でも,自分が好きな人,あるいは大切だと思う相手に対しては時間をさくのをいとわない一方,そうでない相手に対しては時間を過ごすのを極力減らそうとする。こうしたことから考えると,ケアとはその相手に<時間をあげる>こと,と言ってもよいような面をもちえる。あるいは時間をともに過ごす,ということ自体がひとつのケアである。つまり「いる」というのはゼロではない。なにかをしてあげないとプラスにならないのではない"(本書より)