天馬、翔ける

天馬、翔ける 上

天馬、翔ける 上

臨床看護2005年8月号 ほんのひととき 掲載
“天稟とは天に愛された者のみが授けられるものじゃ。それは重い役目を荷うことでもある。決して幸せなことばかりではあるまいが,気を強くもって耐え抜きなされ。衆生に恵みを施すことによって天の恩恵に報いれば,必ずいつかは良かったと思える日が来る"(本書より,老僧・西行法師の言葉)

 今回は夏休みの読書にお勧めしたい,義経像を描いた時代小説をとりあげます。源義経は,日本史上でもっとも愛されてきた人物の一人であり,その鮮烈で悲劇的な生涯は「判官贔屓」という言葉を生んだほどです。ちょうど今年はNHK大河ドラマ義経」が放映されていて,ご覧になっている方も多いと思います。
 「義経と頼朝の時代小説を,今さらまたどうして取り上げるの?」「テレビのブームにあやかって書かれたのでは?」と思われるかもしれません。
 でも違うのです。
 新聞の書評欄では滅多につかない五つ星(これを読まなくては損をする)の本が,本書『天馬,翔ける』です。平成13年から3年半かけて「小説新潮」に連載された『天馬の如く』を,昨年末に『天馬,翔ける』と改題して出版されました。
 著者の安部龍太郎さんは49歳。久留米高専から21歳で上京。大田区役所に入り,図書館の司書をしながら純文学の雑誌の新人賞に応募をし続け,28歳のときに区役所を退職して退路を絶ったものの,まる4年間無収入で芽が出ずにいきづまってしまったそうです。
 そんなとき,友人が「おまえの作品では時代小説が面白かった」といってくれたことがきっかけで,時代小説を書き始め,小説新潮新人賞に応募したことから編集者に注目されはじめたという経歴が書評欄に紹介されていました。
 日本史が大転換した中世を新しい視点から見直す歴史学者網野善彦さんや赤坂憲雄さんなどの最新の歴史学を取り入れて,朝廷と武家の対立の中に頼朝・義経兄弟の悲劇を一方に偏ることなく幅広い視点から描いています。
 本書のなかで安部さんは日本が生まれ変わる触媒の役目をした英雄として義経を見直し,義経と芸能民や漂泊民とのつながりや,血縁の可能性を含めた後白河法皇との深い結びつきを示し,多彩な視点から新しい義経像を提示しています。
 安部さんは京都・北野天満宮近くの町家を借りて単身赴任生活をしつつ本書を執筆したそうです。その理由を「性根を入れて歴史小説に打ち込むためであり,歴史,文化,信仰,芸能の大元である京都に住んでこそ,風土や京都人気質がわかる。土地の霊を信じたい」とインタビューで答えています。
 そんな意気込みが力のある文章となって,豊かな物語を作り出しています。
 「ぼくは一貫して朝廷と武家の相克のなかに日本史を見てきたが,武家の朝廷に対する屈折した思いは,今の我々のなかにもあると思う。畏敬の念と反発心のアンビバレンス(両面価値)を深く見つめていきたい」と話す安部さんは,日本史が大転換した中世を新しい視点から見直す力作を次々に発表し,司馬遼太郎池波正太郎藤沢周平隆慶一郎亡き後の歴史時代小説を支える大型作家という評価も得ています。
 歴史小説の面白さは,読んでいてどれだけその時代と人物の生きざまにのめり込めるかで決まると思います。
 本書の魅力をさらに付け加えるとすれば,義経紀行ともいえる東北平泉,関東鎌倉,伊豆,京都,そして壇ノ浦などの風景描写の美しさです。
 “深い雪に閉ざされた奥州にも,ようやく芽吹きの季節がおとずれていた。はるかに遠くにそびえる栗駒山には厚い雪におおわれ,朝日を浴びて白銀色に輝いているが,三迫川ぞいの湿原にはつややかな若草が生い茂っている"(本書より)
 読んでいるうちに本書を携えて,義経の行跡をたどる旅をゆったりとしたくなりました。できればテレビの義経ブームの喧騒が収まってから,静かな一人旅でのんびり歩いてみたいですね。