塩の博物誌

塩の博物誌

塩の博物誌

臨床看護2005年7月号 ほんのひととき 掲載
“例外的な時期を除いてずっと長いこと塩は,「白い黄金」とよばれるほどに希少で高価な食品であった。しかし今や塩はありきたりの商品である。なぜなのだろうか?"(本書より)

 1997年4月,日本専売公社による塩の専売は廃止されました。それ以来,日本各地にあった塩の特産地が復活して,スーパーや食料品店の棚にも全国のみならず世界中からの塩がならんでいるのはご存知の通りです。
 無頓着な私にはよくわかりませんが,塩の味にうるさい人たちは,「一つ一つのワインに独特の味覚とアロマがあるのと同様に,塩化ナトリウムが主要成分とはいえ,海水から作る塩を塩化ナトリウムと同一視することは誤りである。海水由来の塩は塩化ナトリウム以外にどのような不純物を含むかによって味が決まる。ゆえにワインと同じく塩には産地の個性が刻まれているのである」と言って,塩の味を珍重しています。
 今回ご紹介する『塩の博物誌』は1998年に「塩」をめぐって一般読者を対象に「経済学,美術史,物理学,政治学,化学,民族学等々を総合する」テキストとして書かれました。すでに英語,韓国語,スペイン語,中国語,イタリア語に翻訳され,日本ではつい最近出版されました。
 著者のラズロさんはフランス人の有機化学の専門家です。ここ数年は一般向けに科学の面白さをわかりやすく伝授する本(錬金術とは何か,香水の科学,水道水は飲んでも安全? など)を出版しているそうです。
 訳者の神田さんがあとがきで,“日本の小学校に導入された「総合学習」は現場の混乱を招いているようだが,この本は大人のための「総合学習」の教科書かもしれない"と書いているようにラズロさんの深い教養に裏付けられた,含蓄のある内容を持っています。
 以前にも本欄では『痛みの文化』(1998年),『血液の物語』,『癌の歴史』(2000年),『生命40億年史』(2004年)などの医学・理科系に限らず文科系の幅広い分野を視野に入れた啓蒙書を紹介してきました。自らの専門分野にとどまらずに,どん欲に未知の分野の知識をとりいれていく碩学者の本には輝く魅力があります。
 それはまた日常,仕事として医療に取り組んでいるとついマンネリ化しやすい私たちの姿勢や意識に新たな視点を与えてくれると思います。
 本書も単に「塩化ナトリウム」として「塩」だけでなく,塩を中心とした優れた比較文化誌です。各章のタイトルをみてみると「塩漬け:食品保存の知恵」「塩の生物学:海と有機体のなぞ」「塩の政治学:税と権力の源泉」「塩をめぐる神話と伝説」等々,まさに食指をそそる構成になっています。
 ラズロさんはまた日本文化にも造詣が深く,はしがきでは次のように述べています。
 “塩に関する諺や格言を中心として豊かな日本文化に触れることができた。ヨーロッパの格言と同様に日本の格言も「毎日のように塩を摂取する生理学的な必要性」や,「食べ物や人生に風味を添える塩の役割」に言及している。こうした日本の諺は本書を特徴づけるものであり,本全体の価値や風味を高めてくれている"(本書より)
 その一例が「手塩にかける」です。
 “この表現の比喩的な意味は「子どもを大切に育てる」ことであり,塩をつまむという具体的な動作を教育の次元に置き換えて使うとき,二つの連想が働く。一つは希少で大切な塩(食べ物に風味を添え,ひいては生活に潤いを加味してくれる)を子どものイメージと重ねる暗喩である。もう一つは塩をつまみあげるときの手指の形に関連があり,非常にか弱く傷つきやすいものを常に見守り,できる限り守ってやろうとする動作を象徴している"(本書より)
 日本では忘れかけているこの言葉を,フランス人化学者であるラズロさんに教えられることの「妙味」も本書の味わいのひとつでしょう。