永遠の子ども

永遠の子ども

永遠の子ども

臨床看護2005年6月号 ほんのひととき 掲載
“知らなかった。それとももう思い出せない。僕の人生はこの忘却であり,そしてこうしたことを僕は見ていなかった。僕は言葉のなかで,執拗で無分別で豪奢で不遜な言葉に囲まれて暮らしていた。だが,僕は思い出す。知らなかったということを。(中略)おそらく,知らぬままのほうがよかった。僕たちの無知が,僕たちを守っていた。無知が僕たちの不幸から守っていた。知ることは,この贈り物を僕たちから奪う。あの冬が結局のところ,最後だった。冬はその光のなかに,それまでのすべてを吸い込んでしまった"(本書巻頭より)

 著者のフォレストさんはパリ在住の比較文学研究者で,1997年に娘さんをがんでなくしたことが契機となって小説の執筆を行うようになり,その一作目の小説が本書『永遠の子ども』です。
 娘のポーリーヌは三歳の誕生日直後に小児がんであることがわかり,パリの小児病院でさまざまな治療を受けたにもかかわらず,一年あまりの闘病生活ののちに四歳の春に亡くなりました。
 幼い娘と過ごす日々,結末が見えているだけにいっそう美しい時間が父親の目から克明に描かれると同時に,つねに文学者としての客観的なまなざしがあり,死にゆく子どもを取り巻くあらゆるレベルの問題が感傷を排した筆致で重層的に綴られています。
 新聞の書評欄インタビューのなかでフォレストさんは,父親の立場から病み逝く娘の姿を小説に書くことの意義を次のように述べています。
 “小説を書く行為は,娘の死という過酷な現実に立ち向かう一方で,それを「思い出」という箱にしまう二つの意味を持つ。フランス語では苦しみ(douleur)と優しさ(douceur)という言葉はよく似ている。文学においても苦痛とやすらぎはつながっていると思う。"
 またフォレストさんは比較文学者として日本文学にも詳しく,娘さんが病気になったときに,大江健三郎さんの小説を読んだことも本書を書くきっかけになったそうです。
 “大江さんは「父性という問題を考察し,父親である苦悩を作家としての距離を置きながら,真っ正面から書いた。その作品は力強く,感傷性や甘ったるさを回避することに成功しています。そしてそういった書き方が可能だということを証明した"(本書あとがきより)
 内容も深いのですが,読み終えて私が感じた本書の魅力の一つは,詩のような美しい文章とそれを伝える堀内ゆかりさんの的確な翻訳の日本語文です。
 “フォレストさんの文章を読みましたが,強く光を感じました。痛みを乗り越えた人だが見ることのできる光で,読んでいて美しいと思いました"と作家の辻仁成さんが感想を寄せているのも,もっともだと思います。
 また本書の各章のエピグラフには『ピーター・パン』からの引用がおかれています。
 “二歳という年齢(とし)はおしまいのはじまりだ"
 “ピーター・パンにはおかしな話が伝わっていて,たとえば子どもが死ぬと,こわがらないようにピーターが途中まで付き添っていってやる,という"
 大人にならない子どもピーターと妖精のティンカーベルに誘われて,ネバーランドへ飛んでいくウェンディに,愛娘ポーリーヌをなぞらえているようです。
 娘の死を繰り返して同じテーマとして何度も書くというフォレストさんの最新作の小説は,『SARINAGARA』(さりながら)です。
<露の世は 露の世ながら さりながら>
 “題名は小林一茶がひとり息子を亡くしたときのこの俳句からとられている。この世が露のように,はかないものだとは知っていた。だがそれにしても…『永遠の子ども』をつらぬく筆舌に尽くしがたい悲しみ,救いのなさ。それをあらわす一つの言葉を日本で見いだしたのだ"(本書,訳者あとがきより)
 『さりながら』の翻訳・出版が今から待たれます。