生命学に何ができるか

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

臨床看護2004年5月号 ほんのひととき 掲載
“生と死の問題をまったく新しい角度から見たい。この本はそういう思いから生まれた。生命倫理というと「善いか悪いか」にばかり目がゆく。だが,それ以前に,これらの問いにもっと違った方向から光を当てることができるんじゃないか"(本書より)

 本書『生命学に何ができるか』を,私は2年前に書評欄で見て買い求めました。「生命学」という文字に新鮮さを感じ,期待して読み始めたのですが,どうも著者の森岡さんの文章と波長が合わずに,途中で本棚の奥に放り込んでいました。
 “この本は,荒削りの未完成品である。生命倫理を素材として,生命学へと突き抜けようとする情念のエネルギーだけで書かれている。あちこちの壁が破れており,思索が途中で途切れている箇所もある"(本書あとがきより)と,森岡さんも認めているような「荒削り」な文体と思考についていけなかったのだと思います。
 その後も受精卵の出生前診断をめぐるニュース,そして脳死移植法案の見直しなど生命倫理に関する議論が報道に取り上げられるなかで,大阪府立大学で哲学・生命学の教鞭をとる森岡さんの名前を何度か見聞きしました。
 もう一度読み直してみようと思って,本棚の奥でほこりをかぶったままにしておいた本書をとりだしてみました。
 “「生命倫理学」とは,1970年代に米国を中心に形成され,1980年代に日本に輸入された「バイオエシックス」のことをいう。制度化された倫理学の枠内で脳死体外受精などの問題を議論する学問である。
 「生命学」とは,私が提唱している学問の方法だ。人間の死と生や,生命世界のあり方を独自の視点から探求し,自分の人生へと反映させてゆく知の方法のことだ"(本書より)
 不思議なもので2年前には,肌に合わなかった森岡さんの混沌とした思索が妙に力強く,そして,ふだん私自身が臨床で感じていた感覚に似ていることに興味がもてるようになりました。
 “それまでの医師による脳死論は,脳死になった患者の「脳の中身」のことばかりを議論している。しかし,病院で家族が出会うのは,「脳の中身」なのではなく,脳死になったという肉親という「人」,つまり「脳死の人」なのである。脳死問題の本質は,脳死になった人と,それを取り巻く人との「出会い」の問題であると私は考えた。脳死とは「人と人との関わり方」であり,問うべきは「場としての脳死」である"(本書より)
 病棟での癌の緩和ケアで,死にゆく患者さんと家族との関わりについて感じていたことを振り返りつつ読んでいると,脳死をめぐる森岡さんの議論の立脚点に共感がもててきました。
 森岡さんはさらに柳田邦男さんが,次男の脳死の看病体験をもとに描いた『犠牲』を取り上げています。“いま私が直面しているのは,4日間の経過のなかで,明らかに脳死状態に滑り落ちていきつつある息子の,人生における最も大事な時間を,いかにして納得できる意味のあるものにするかという問題だった。センチメントこそ,思考の大事な要素だった"(『犠牲』より)
 そして“「伝わってくるものに,私の感受性は限りなく広く深まっていく」とは,このような意味であると私は思う。この対話の体験は,その人との別れを受容することにつながっていくだろうし,人間や生命というものの奥深さを身にしみて理解していくことにつながるかもしれない"(本書より)と述べています。
 机上での議論をできるだけ排して,臨床現場やベットサイドでの経験や体験に鋭い感受性を張りめぐらそうとする森岡さんの磁力に,今回はとり憑かれたような気がします。

 “親の話を聞いていると,脳死になってベットに横たわっている子どもの身体に,「いないはずの人が,ありありと現れている」という感覚を持っている事がある。生とも死ともつかない,このようなリアリティについて,掘り下げて考えるべきじゃないのだろうか"(本書より)