蕨野行

蕨野行 (文春文庫)

蕨野行 (文春文庫)

臨床看護2004年1月号 ほんのひととき 掲載
“行手に死の壁しかないこの姥捨の物語の導入部を思いめぐらせているとき,ふと一人の若い女の顔がぼうっと浮かんできた。つづいて一人の老婆の顔が現れた。そうだ,この二人の問い語りの中からなら,連綿と行なわれてきた昔の共同体の悲話も,また一つ違った趣きで現れるかもしれないと思った。「行」の字には古く楽曲・叙事詩の意があるという。嫁と姑の相聞・葬送歌のタイトルにふさわしく感じ,その一字を加えペンを起した"(作者のことば)

 私にとって文学を読む,小説を読むことの愉しみは,想像力をかきたててくれることにあると思っています。いままで知らなかった世界,時代,そして歴史にひたることのできる作品,そして作家に出会えることはいつまでも心をゆさぶり続ける,減ることのない復元力をもっています。
 最近読み始めた,村田喜代子さんの作品にはそういう力を感じています。かなり大きな書店でも女性作家のコーナーの片隅にしかない村田さんの本を見つけると,そのたびに1冊ずつ買い求めては愉しんでいます。
 『雲南の妻』(講談社刊)では中国茶のあやしい魅力を,『人がみたら蛙に化れ』(朝日新聞社刊)では骨董をめぐる美と人間の欲の世界を描き出していて,どこか心に残る雰囲気を味わうことができました。
 今回ご紹介する『蕨野行』は,もう10年も前に刊行された小説です。当時の新聞の書評欄で気にはなっていたのですが,本屋で見つけることができずにそのままになっていました。それがつい最近,川崎にできた大きな書店の書棚にあったときには,掘り出し物に出会えた気分でした。
 『蕨野行』の舞台は江戸時代の雪国の山村。60歳の還暦を迎えたジジババたちが,共同体としての村の掟で村を出奔して共同生活をおくる場が「ワラビ野の丘」という設定の姥捨の物語です。
 “春の土用参りぬれば,ジジババ等はわが家を一時出ていくなり,皆共々に連れ立ちて,少々の着替え,木椀,夜具などを背負い三つの村を出奔せり,行く先は里より半里の,深代川の源流をたどるワラビ野の丘なるやち"(第一章「生きたるワラビ」より)
 凶作にあえぐ村人の飢えと老いを描きながらも,再読してみるとそこには自然の四季と,生命輪廻の哀しいまでの対比が,美しい叙事詩のような響きをもって語られています。
 春の村の景色は,“丘はどこまでも見晴らしがきいて,彼方には里の姿が,田や川や家の屋根も小さく眺められた。田畑のあいだに切りこんだ深代川の流れ,雪代川の川面はけぶるよに光り,真むかいには,重ノ森の丘,その遠い先には鋸伏山が屋根の長い姿をそびやかして有るなり。野は背後の木臼山の芽吹く林に抱かれるよに,優しかる掌のよにさしのられて有る"(第二章「芽吹く丘」より)と。
 そしてたくましい生命力は,“不思議なるは洗濯か,昔より女子が集うて洗い物をするなれば,心浮かびみな上機嫌となる。物を洗う。髪を洗う。女子が何かを洗うことは,もしや心気をほぐし洗うことで有りつろうか。白髪を解きて川水にさらし,骨皮の五体を浸し,破れ着を流れにそそぐ。年経りて,棲家を変えつれど,洗濯の愉しき心地は変らぬやち。地獄も一定,棲家となる。鬼もババもそのままに生きて有るなり"(第三章「空行く鳥」)と描かれています。
 <老い><死>を扱ったどんな評論よりも,村田さんのこの小説は,いつまでも心に深い響きを残してくれると思います。

 “雪の原はやがておれの目の前から消えて,先の夢の,あの漆黒の夜空が現れたる。その空にはヒューヒューと風の音が流れていた。いつのまにかおれは空を飛んでいた。風の音と思うたのは,おれの身が風を切り行く音で有るなり。痺れる寒気が永えあいだおれの身を責めていたが,空飛ぶうちに体がゆるく寒の縛りから解かれていく心地がしたる。まるでそれは苦の皮を脱いでいくなるよ"(第七章「かげろうの朝」より)