老いの空白

老いの空白 (シリーズ生きる思想)

老いの空白 (シリーズ生きる思想)

臨床看護2003年10月号 ほんのひととき 掲載
“多くの介護は,「じぶんはこんなになりたくない」という本音を隠し持ちつつなされています。でも「じぶんもこうなりたい」と思えるかどうか。そこに痴呆介護のすべてがかかっているのではないでしょうか?"(老人保健施設の看護師からの問い,本書より)

 4年前に哲学者である鷲田清一さんの『聴くことの力 臨床哲学試論』をこの欄で取り上げました。鷲田さんの真摯な思索に支えられたさまざまなことばによって,日常臨床を通じて自分の心のなかで漠然と感じながらも掴み切れていなかった「聴く」ことの大切さと意味を教えてくれた本でした。
 この本をきっかけに,<日常>とか<モード>,<顔>,そして<聴く>とか哲学で論じられてこなかったテーマや,哲学者の視野から外れるテーマをとりあげた鷲田さんの本を読みあさってきました。
 “わからないものがわからないままに占めるべき場所というもの,それを容れる余裕が,この時代,無くなってきている。資格,成績,評価,昇格と,社会全体の学校化が加速してきた。これが危ういのは,理解不能なものを今の自分に理解可能な枠の中に押し込め,せっかく見えているものを,無いかのように棄却してしまうからだ。そのことで,見えているものを歪め,危機の徴候を見逃してしまう"という鷲田さんの姿勢には,読むたびに啓発されるものがあります。
 今回,紹介する『老いの空白』は,<老い>について“これまでいやというほど論じられてきたはずなのに,それらの論述が総じて見過ごしている視点から,問題を論じなおすというやり方で「哲学」の仕事をしている"という鷲田さんの最近の論文や,著書『<弱さ>のちから−ホスピタブルな光景』(講談社刊)をもとに書かれた本です。
 「“<老い>を,高齢者が,あるいはそのひとを取り巻く家族がきちんと受けとめる余裕もないままに,高齢化社会は進行してきた。過去の<老い>の文化にいろいろ学びながらも,これまでとはまったく事情のことなる時代のなかで介護問題,福祉問題など,<老い>のきびしい現実は待ったなしにやってきている"(本書まえがきより)
 私自身もつい最近,老いた父親の入院を通じて「介護」とはとてもいえない「介護」の体験を持ちました。そのなかで「老い」と「介護」について漠然と,悔恨もまじった屈折した思いや,けりのついていない思いを持っていたときにこの本に出会うことができました。
 鷲田さんはまず,“<老い>はほんとうに「問題」なのか?"という問いについて述べています。“<老い>は今,「養う者・養われる者」という二分法的な社会的カテゴリーのなかに収容されており,老いる者が受動的な存在であること,<老い>が他律的なものであること(従順で愛らしい老人)が強いられている。要は,高齢者はこの社会では受け身であるしかない。このことが介護の問題を「負担」という「問題」として提起させているように思う"(本書より)
 そして<老い>そのものについてさまざまな思索を促す視点を提供しています。
 「いつまでも幼くあること,つまりは未熟でいられることが許される社会」それこそ,逆説的にも,「成熟した社会」なのではないかとおもえてくる。そして<老い>は,そういう,いつでも世界の外にでるという意味で未熟になれる可能性を含んだものとなってはじめて成熟になるのではないか」“(本書より)
 壮年(労働年齢)をモデルとした社会構成から軸を移した別の社会が構想される時期に入っているという鷲田さんの提唱は,自分自身の<老い>の問題を考える契機にもなるようです。

 “人間の弱さは,それを知っている人たちよりも,それを知らない人たちにおいて,ずっとよく現れている。人間は,天使でも,獣でもない。そして,不幸なことは,天使のまねをしようとおもうと,獣になってしまう"(パスカル,本書より)