言語の脳科学

臨床看護2003年8月号 ほんのひととき 掲載
“人類の誕生からしばらくたった頃,言語は人間の心に生まれた。それから,言語は何世代にもわたって,心から心へと受け継がれてきた。そしてサイエンスを身に付けた人間は,言語を通して自分自身を理解する道を歩み始めたのである"(本書より)

 脳科学あるいは認知科学は,“なぜ,脳という物質に心が宿るのか? 視覚や感情の脳内メカニズムはどのようになっているのか? 身体感覚や時間意識,他者に共感する能力など心の複雑で豊かな営みは,脳内でどのように生まれるのか?"という疑問に答えようとする学問分野として,最近,著しい発展をしています。「21世紀は脳科学の世紀」と呼んでいる科学者も数多くいます。
 以前,本連載(2002年5月号)で『心を生みだす脳のシステム;「私」というミステリー』(茂木健一郎・著)を取り上げました。言葉の意味,ボディ・イメージ,脳と環境の相互作用,自己意識,他者の心の理解,感情,心理的時間といった「私」を作り出す多様な要素のすべてを,「クオリア」を鍵とする概念として統一的に理解しようとする試みが紹介され,科学と哲学の境界領域に果敢に挑む茂木さんの姿勢に新鮮さを感じました。
 今回取り上げた『言語の脳科学;脳はどのようにことばを生みだすか』は,言語学・心理学という文科系の学問と,物理学・生理学さらに脳科学という理科系サイエンスの境界が取り払われつつある最前線を紹介する本です。
 酒井さんは,東京大学で物理学を専攻し,大学院では生物学(ショウジョウバエの神経発生)と生理学(ニホンザルの連想記憶のニューロン機構)の研究を,さらに大学院を修了する頃にはMRIで人間の脳を研究できるという可能性に魅せられて,心理学に興味をもつようになったそうです。その後,ボストンで革命的な言語学理論を打ち立てたチョムスキーの思想に直接ふれたことが,「言語の脳科学」へ打ち込むきっかけになったと,本書の冒頭に述べています。
 1950年代,言語学に「チョムスキー革命」といわれるほどのコペルニクス的転回をもたらしたチョムスキーという学者を,本書を読むまで私は知りませんでした。“言語に規則があるのは,人間が言語を規則的に作ったためではなく,言語が自然法則にしたがっているからである。この考えは,一般常識に反したものであろう。こうしたチョムスキーの言語生得説は激しい賛否を巻き起こしてきたが,最新の脳科学はこの主張を裏付けようとしている。言語がサイエンスの対象であることを明らかにしたい"という酒井さんの趣旨に沿って書かれた本書は,一読しただけでは難解でした。
 “子どもはなぜ文法的に間違った文が間違っているとわかるようになるのだろうか。その謎を一気に解決してしまう解答が一つだけある。それはいたって簡単。幼児の脳に始めから文法の知識があると考えればよいのだ… この答えは開き直りではないか? いやむしろコロンブスの卵と言えるだろう。発生の仕組みで身体ができ上がるのと同じように言語知識の原型がすでに脳に存在していて,その変化によって言語の獲得が生じると考えればよい"(本書より)
 巻末に近い11章に書かれた「手話への招待;音のない言葉の世界へ」を読むと,この自然言語という考え方が少し理解できそうです。
 “手話(サイン・ランゲージ)は,日本語や英語と同じように文法を持つ自然言語の一つである。それは,子どもが手話を母語として獲得できることからも明らかである"として,手話の脳科学にまで言及している酒井さんの意欲が,この難解な本を医療者にとっても魅力あるものにしているようです。

 “言語の研究は,人間の心の探究に他ならない。さまざまな言語に触れるときに,その違いや共通性について考えてみるならば,きっと心の世界を広くかつ深く理解できるようになるだろう"(本書より)