嘘つきアーニャの真っ赤な真実
- 作者: 米原万里
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2001/07/01
- メディア: 単行本
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“「日本はモンスーン気候帯に所在」という記述を見つけて,自然と顔がほころぶのを抑えきれなかったのである。空中の水分が多いので,呼吸器系も肌も髪も,しっとりと息づく感覚を思い起こして懐かしさに身震いした。…このときのナショナリズム体験は,私に教えてくれた。異国,異文化,異邦人に接したとき,人は自己を自己たらしめ,他者と隔てるすべてのものを確認しようと躍起になる。自分に連なる祖先,文化を育んだ自然条件,その他諸々のものに突然親近感を抱く。これは一種の自己保全本能,自己肯定本能のようなものではないだろうか"(本書より)
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真っ赤な装丁に東欧プラハの街並みの装画,そして,一見ジョークのような題名を見て,この本の内容を想像することは難しいかもしれません。
帯には「2002年 第33回 大宅壮一ノンフィクション賞受賞」,副題が「激動の東欧を生きた3人の同級生の物語」と書かれているのを見て,ようやく本書が,なにかノンフィクション作品らしいことがわかります。
著者の米原万里さんは,ロシア語会議通訳で,しかも優れたエッセイストです。米原さんが9〜14歳まで,すなわち,1960〜1965年まで当時のチェコスロバキアの首都プラハのソビエト学校に学んだ,その体験記を基に書かれたエッセイです。当時の米原さんの同級生3人との交友録でもあり,さらに旧ソビエトのプラハ侵攻,東欧崩壊,ユーゴ多民族戦争を経て家族も祖国も分断された30年後に,この3人の安否を尋ね歩いた体験が描かれています。
米原さんの親友だった,ギリシア人(第1章『リッツァの夢見た青空』),ルーマニア人(第2章『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』,そしてチェコスロバキア人(第3章『白い都のヤミンスカ』)との,少女時代の楽しい回想とその後の大きな東欧社会の激動に自らの運命を翻弄される彼女たちの姿が,「卓抜の才智に長けたストーリーテーラー」(柳田邦男・評)である米原さんによって,ワクワク,ハラハラするような物語に仕上がっています。
鉄のカーテンとよばれ,今まで,なじみのほとんどなかった東欧,バルカン諸国,そしてロシアの人々の生活と文化,さらには生活の智慧に至るまで,心憎いばかりの趣向と達意の文章でさりげなく描く米原さんの筆達者ぶりが伺えます。それらが,再読しても驚かされるうまい伏線の張り方とも相まって,大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したことが納得されます。
たとえば,巻頭にはロシアの諺が,まず書かれています。“「ただでもらった馬の歯を見るものではない」…贈り物にケチをつけるな,という意味のロシアの諺である。馬を品定めするときの決め手が歯であるという生活の知恵のほうに感心してしまう。歯には馬の健康状態が如実に反映される。それに老いるほどに歯は消耗していく。ババをつかまされないように,買い手のほうは,歯の一本一本に食い入るような視線を注ぐ"
本誌4月号の特集にある「…実際患者の口腔内の状態は看護の質を最も良く現すもののひとつである」(バージニア・ヘンダーソン)という文章を思い出してしまいます。
“たしかに社会の変動に自分の運命が翻弄されることなんてことはなかった。それを幸せと呼ぶなら,幸せは,私のような物事を深く考えない,他人に対する想像力の乏しい人間をつくりやすいのかもね。人間は自分の経験に基づいて想像力を働かせますからね"と自省する米原さんの言葉には,今の日本の「平和ぼけ」に対する含みもあるようです。
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“この戦争が始まって以来,そう,もう5年間,私は家具をひとつも買っていないの。食器も,店で素敵なものを見つけて,買おうかなと一瞬だけ思う。でも,次の瞬間は,こんなものを買っても壊されたときに失う悲しみが増えるだけだ,っていう思いが被さってきて,買いたい気持ちは雲散霧消してしまうの。それよりも,明日にも一家皆殺しになってしまうかもしれないって"(本書 「白い都ベオグラードのヤミンスカ」より)