わが友マキアヴェッリ;フィレンツェ存亡

わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)

わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)

臨床看護2002年12月号 ほんのひととき 掲載
ルネサンス遺産は,精神の独立に対する強烈な執着。言い換えれば自分の眼で見,自分の頭で考え,自分の言葉ないし手で表現することによって他者に伝える生き方です。
 人間は見たくないと思っているうちに実際に見えなくなり,考えたくないと思い続けていると実際に考えなくなるものなのです"(『ルネサンスとは何であったのか』より)

 本書は1987年に刊行され,『塩野七生ルネサンス著作集全7巻』のなかで再度出版されました。著者の塩野さんは,イタリアに在住して,長大な『ローマ人の物語』を毎年刊行し続けています。つい最近,文庫化されベストセラーになっているので,読まれた方も多いと思います。
 今秋,学会で私自身初めてイタリアに行くことになり,夏休みに,今まで買い集めていた塩野さんの本を読み直していました。そのなかで,いちばん読みごたえがあったのが本書です。
 権謀術数の代名詞とされるマキアヴェッリを,15世紀イタリア・ルネサンスの終焉をフィレンツェ共和国の外交書記官として真摯に見続けた,人間味溢れる実像として塩野さんは愛情をもって描き出しています。
 マキアヴェッリが外交官を失脚して隠遁しながら『君主論』の著作にいそしむ姿に,ローマにあって,長大な物語を書き続けている塩野さん自身の姿を重ね合わせている次の一節を読むと,どうして「わが友」と呼んでいるのかがわかるようです。
 “夜が来ると,家に戻りそして書斎に入る。入る前に泥や何かで汚れた毎日の服を脱ぎ官服を身に付ける。礼儀をわきまえた服装に身を調えてから,古(いにしえ)の人々がいる,古の宮廷に参上する。そこでは,わたしは,彼らから親切に迎えられ,あの食物,わたしだけのための,そのためにわたしは生を受けた,食物を食すのだ。4時間というもの,まったく退屈を感じない。すべての苦悩は忘れ,貧乏も恐れなくなり,死への恐怖も感じなくなる。彼らの世界に,全身全霊で移り住んでしまうからだ"(本書より)
 さらに『塩野七生ルネサンス著作集』の第1巻『ルネサンスとは何であったのか』では,塩野さんのルネサンス古代ローマに関する創作のきっかけを次のように述べています。
“「なぜ,古代のローマに関心をもったのか」と聞かれることが多い。それに私は「ルネサンスを書いたから」と答える。そうすると,「なぜ,ルネサンスに関心をもったのか」と聞いてくる。
 中世を支配してきたキリスト教的な価値感の崩壊に立ち合ったルネサンス人と,近代を支配してきた西欧的価値感が崩壊しつつある時代を生きる私。ならば彼らが新しい価値感を作り上げるために回帰した先が古代のローマなのだから,私も回帰してそれが何であったのかを冷徹に知ることが先決すると思った"
 昨年のアメリ同時多発テロからちょうど1年,まさに近代を支配してきた西欧的価値感が崩壊しつつある時代にあって,静かに歴史と対話し続ける塩野さんの本には,また,あらたな魅力が出てきていると思います。
 本書のもう一つの魅力は,風光明媚なイタリア・トスカーナ地方をルネサンス全盛時代のl5世紀にもどって,まるでマキアヴェッリの眼でみたように描いている美しい文章です。
 “中部イタリアに位置するトスカーナ地方は,低いなだらかな丘陵が重なり合って続くのが特色だが,盆地にできた街フィレンツェは,市門をでてから5,6分で満喫することができる。
 濃い緑の糸杉と,地中海地方の陽光をふんだんに浴びてこんもりと暖かい傘松の群れ,風に吹かれるたびに白っぽい葉の裏を光らせるオリーブの樹と,季節ごとに様相を変えてゆくブドウの畑。コリーナと呼ばれる丘陵の頂きには鐘楼が目印の教会や僧院,おおげさに胸間城壁をめぐらせた山荘などが眺められる"
 旅をする楽しみのひとつは,その国や地方の歴史と文学と自然にふれた美しい本を,旅の前に読んで準備することにあると思います。