心を生みだす脳のシステム;「私」というミステリー

心を生みだす脳のシステム 「私」というミステリー (NHKブックス)

心を生みだす脳のシステム 「私」というミステリー (NHKブックス)

臨床看護2002年5月号 ほんのひととき 掲載
“目の前に広がる牧場も空を流れる雲も,緩やかに流れる川も,頬をなでる風も,輝く太陽も,私の周りに広がる広大な光景は,すべて私の脳の中のニューロン活動が生み出した脳内活動に過ぎない。どんなに広大な空間をさまよってもどこに移動しても,「私」は決してこの狭い頭蓋骨の中の脳内現象であることから解放されることはない"(本書より)

 脳科学あるいは認知科学は,“なぜ,脳という物質に心が宿るのか? 視覚や感情の脳内メカニズムはどのようになっているのか? 身体感覚や時間意識,他者に共感する能力など心の複雑な豊かな営みは,脳内でどのように生まれるのか?"という疑問に答えようとする学問分野として最近著しい発展をしています。
 “1000億のニューロン(神経細胞)が互いに関係性を持つことから生じる脳のシステムとしての性質にこれらの謎を解き明かす最大の鍵があるとみなす「システム論的アプローチ」という最近の知見をふまえて自己意識をめぐる深遠な問題に挑む"と題している本書は,やや粗削りながらも非常に知的刺激に満ちた本だと思います。
 著者の茂木健一郎さんは,東大理学部と法学部を卒業後に大学院では物理学課程を終了し,さらに理化学研究所ケンブリッジ大学を経て現在はソニーコンピューターサイエンス研究所の研究員という経歴で,これからも想像されるようにさまざまな学問分野を駆使してこの「心」と「脳」の関係に取り組んでいます。
 “脳の中でどのような神経伝達物質が機能しているのか? このような生化学的知識は貴重なものである。しかし,その神経伝達物質が,脳の中のニューロンの関係性をどのように構築し,どのように変えるのかという根本的な問題が解決されないかぎり,心を生みだすメカニズムの本質には迫れない"というはっきりとした立場から,なぜ脳という物質に心が宿るのかという問題への切り口を「クオリア」(質感)というキーワードからアプローチしています。
 “薔薇を見たときに心の中に浮かぶ赤い色の感じのように,私たちの心の中に浮かぶ質感を「クオリア」(qualia)と呼ぶ。どんなに複雑であるとしても物質に過ぎない脳のニューロン活動から,いかにして薔薇を見ているときの生々しいクオリアが生じるのか? 従来のような意味での科学的記述を脳に関していくら積み上げても,根本的には解決できないであろう。
 本書は言葉の意味,ボディ・イメージ,脳と環境の相互作用,自己意識,他者の心の理解,感情,心理的時間といった「私」を作り出す多様な要素のすべてを,「クオリア」を鍵とする概念として統一的に理解しようとする試みである"
 科学と哲学の境界領域に果敢に挑む茂木さんの姿勢に,若さと新鮮ささえも感じながら読み進めました。ちょうど,遺伝子ゲノム研究ではゲノム解析ですべてがわかったわけではなく,情報が発現されるためには情報を解釈する系の存在が不可欠であり,情報を解釈して形質を発現させるシステムを有するのは生きた細胞そのものであると再認識されている状況と同じようです。
 読み終えて,心がいかにして脳から生まれるかという問題についてまだまだ答えがでていないと感じました。ちょっと残念なような,一方ではほっとしたような気持ちにもさせられます。でも茂木さんたちの研究を基にして,いつかソニーから「心」を持つロボットができるかもしれませんね。

 “なぜ,他人の心が読み取れるのか? 現代的な認知科学の手法が確立する前から多くの哲学者たちは,言葉の意味を支える志向性が,他者の心の志向的状態を読み取る能力と深くかかわっていると考えてきた。このような哲学者の直感は正しかったのかもしれない。実際には私たちが他人の心を思いやる「やわらかな」能力は,「固い」思考と通じる表象化の能力によってこそ支えられているらしい"(本書より)