すべてきみに宛てた手紙

すべてきみに宛てた手紙

すべてきみに宛てた手紙

臨床看護2002年2月号 ほんのひととき 掲載
“書くことは二人称をつくりだす試みです。文字をつかって書くことは,目の前にいない人を,自分にとって無くてはならぬ存在に変えてゆくことです"(本書より)

 書店の詩歌のコーナーをみていて,新刊があると,つい買ってしまう本が長田弘さんの詩集・エッセーです。本書は昨年2月に出版された,手紙としてのエッセー集です。39通の手紙に託して,本の紹介やら詩歌の引用を基に心和む言葉がならんでいます。
 “いずれも,目の前にいない「きみ」に宛てた言葉として書かれました。手紙というかたちがそなえる親しみをもった言葉のあり方を,あらためて「きみ」とわたしのあいだにとりもどしたいというのがその動機でした。"とあとがきにあるように,エッセーでもあり手紙でもあり,そして,音読すると詩としても読めるのが長田さんの本の魅力だと思います。
 “みえてはいるが誰れもみていないものをみえるようにするのが,詩だ"という長田さんの詩集『記憶のつくり方』を以前この連載(第24巻第9号p. 1369頁)でも紹介しました。
 休日の朝に淹れたてのコーヒーを飲みながら,落ち着いた装丁の本のなかの詩を読み返すと,そこには,ともすれば日々に忘られがちな慕わしい,どこかゆっくりとした時間の感触を味わうことができます。
 “剃刀と着替えと文庫本数冊。ふだん読めないようなもの。たとえば『老子』のような。いつもと変わらないままに,日々の繰り返しから,じぶんを密かに切り抜いてみる。それだけの旅だ。ちがった街には新しい気分がある。
 ちがった街の一日のはじまりには,朝の光りと,朝のコーヒーがあればいい。知らない街の気もちのいい店で,日射しにまだ翳りのある午前,淹れたてのコーヒーをすする。誰に会うこともない。忘れていた一人の自分と出会うだけだ。
 その街へゆくときは一人だった。けれども,その街からは,一人の自分とみちづれでかえってくる"(『記憶のつくり方』より)
 こんな一節の言葉に誘われて,最近はいつも旅に出るときには,長田さんの詩集・エッセーをどれか1冊は携えるようにしています。
 “どうしても大切にしたいものは何ですか。
 詩人は言います。それは世界をじっと黙って見つめることができるようなことばです。声がことばをもとめ,ひとがことばにじぶんをもとめ,そして,ことばになった声からひとの物語がそだってゆくのです"(本書より)
 旅先のくつろいだ時間に読むと,この「手紙」が私自身に宛てられたかのように実感されてきます。普段の生活のなかでも本を読むことの大切さを,そして本を読むとはじぶんの時間をいま,ここにゆたかにもつということなのだということを繰り返し長田さんは「手紙」のなかで語りかけています。
 “本のもつ魅惑は,本のもつ「今」という時間の魅惑です。「今」といっても,それは刻々と過ぎさる,ただいま現在のことではありません。むしろそれは,刻々に過ぎさる現在をまっすぐに切断するような,性急な現在にたいしてどこまでも垂直な時間のことで,本のもつ「今」というのは,一人のわたしがそこにいると,はっきり感じられるような時間です。
 一冊の本がみずからその行間にひそめるのは,その「今」という時間のもつ奥ふかい魅惑です。「読書中」という見えない札を,心のドアに掛けて,思うさま一人の「私」の「今」という時間を深くしてゆけるのなら,おそらくそれが,一人の「私」にとってもっとものぞましい読書のあり方です。"(本書より)
 E-メール,インターネットでは味わえないような,手紙や本の温かみが伝わってくるようです。

 “どんな時代にも,ひとが本にたずねてきたものは,けっして過剰なものではなかったはずです。わずかなもの。一冊のほんのおおきさほどの,小さな理想です"(本書より)