『ゲノムを支配する者は誰か;クレイグ・ベンターとヒトゲノム解読競争』

ゲノムを支配する者は誰か―クレイグ・ベンターとヒトゲノム解読競争

ゲノムを支配する者は誰か―クレイグ・ベンターとヒトゲノム解読競争

臨床看護2002年1月号 ほんのひととき 掲載
“二重らせんは,驚くべき分子だ。現代人はおそらく5万歳,文明がかろうじて1万歳,アメリカ合衆国にいたってはやっと200歳を過ぎたところだ。ところが,DNAとRNAたるや,少なくとも数十億年の間,この世に存在しているのである。その間ずっと,二重らせんはそこにありつづけ,働きつづけてきたのだ。そしてわれわれ人間は,この地球上で初めてその存在を意識した生き物なのである"(フランシス・クリック)

 2000年6月26日,ヒトゲノムの解読完了がホワイトハウスクリントン大統領とロンドンのブレア首相の衛星回線を結んでの同時記者会見で発表され,このニュースは新薬開発や遺伝子治療などの分野に革命を起こすものとして一大センセーションを巻き起こしたことを覚えていらっしゃる方も多いと思います。
 民間のベンチャー企業セレーラ社が,米欧日6カ国の公的機関を先んじて解読を成し遂げたことでも注目を集めました。本書はたった一人でセレーラ社を立ち上げてゲノム解読に挑んだ遺伝学者のクレイグ・ベンターと公的陣営のNIHの責任者フランシス・コリンズ博士との対立を軸に,熾烈をきわめた解読競争の全貌を再現した科学ドキュメントです。
 “ヒトゲノム解読は驚くべき偉業であり,車輪の発明から月着陸に至る主要技術の成果のどれにも劣らない。だが,ヒトゲノムを解読するということは,どういう意味をもっているのだろう? 私たちはこの成果を,どうすれば正しく使えるのだろうか?"という素朴な疑問に答えるように,科学ジャーナリストで自らも遺伝学者であった著者のケヴィン・デイヴィーズさんは,ゲノム研究の歴史とその重要性をわかりやすくテンポのいい文章で解説しています。
 “俗っぽく言えば,ヒトゲノムは膨大な部品リストである。ボーイング777機は約10万の部品でできているが,部品リストだけではその組み立て方はわからない。ヒトゲノム解読は,ヒトゲノムの鍵となる5万から10万の構成要素の正体を明らかにし,医療を大きく進歩させるだろうが,遺伝子がわかっただけでは人の心や身体の働きを説明することはできない"(本書より)
 その一方で,この連載で紹介した『遺伝子と闘う人たち』(第25巻第11号,p. 1676,1999年),『神になる科学者たち;21世紀科学文明の危機』(第26巻第5号,p. 716,2000年),『ヒト・クローン無法地帯;生殖医療がビジネスになった日』(第27巻第2号,p. 250,2001年)でも指摘された遺伝子技術や生殖技術が開発されるやいなや,その倫理的影響を考える暇もなく,すぐに臨床場面に持ちこまれることに大きな懸念,そして倫理なき思想である科学に人間の未来を託すことの危険性がますます増大する方向にあるという警鐘が,本書を読みすすむにつれて心に浮かんできます。
 急速な遺伝学の進歩について,監修者の中村桂子さんは,あとがきで次のように述べています。“ゲノム研究そのものは,生物研究として当然の流れであり,生き物,とくにヒトを知るために不可欠のことだ。しかし今ゲノム研究がおかれている状況…それは「ゲノムを支配する者」という捉え方を含めて…は,生き物としてのヒトにとって暮らしやすい社会を用意するものになっているかと考えると,ノーという答えが浮かんでくる。これはゲノム研究者だけの問題ではない。社会のもつ価値観が経済優先,勝てば官軍,他人に直接迷惑をかけなければ何でもあり,欲望に限りなしというところにあるなかで,人間に関わる技術が使われたときは怖いと思うのだ"
 すぐかたわらを通り過ぎ行く出来事あるいは科学的進歩の歴史的な重要性に気づくのは,それから10年以上たってからとも言われていますが,本書は,ゲノム研究と医学の今後のかかわりの理解について一助になると思います。