司馬遼太郎の「かたち」;「この国のかたち」の十年

司馬遼太郎の「かたち」―「この国のかたち」の十年

司馬遼太郎の「かたち」―「この国のかたち」の十年

臨床看護2000年12月号 ほんのひととき 掲載
“土を踏む 風に聞く
 声と出合う はるかな時をみる
 いま日本という国を知る" (司馬遼太郎;『街道をゆく』より)

 司馬遼太郎さんが1996年2月に亡くなられて,もう5年近くたちました。今でも,書店の「司馬遼太郎コーナー」には,司馬文学書評や回顧録などの新刊が,毎月のように並べられています。そして一昨年には,NHKテレビで1年あまりにわたって『街道をゆく』が放映されて,「読み,考え,旅をし,見て,話して,書く人」であった司馬さんの姿が紹介されたのをご覧になった方も多いと思います。
 今回,ご紹介する『司馬遼太郎の「かたち」;「この国のかたち」の十年』は,司馬遼太郎さんが晩年の10年間,月刊「文藝春秋」に毎月連載していた巻頭随筆「この国のかたち」の原稿に添えられた編集者への書簡をもとに,司馬さんの痛烈な姿と「憂国」の動機を描いた本です。
 「この国のかたち」の第1回は,1986年(昭和61年)3月号に掲載され,連載11年目となった第121回の原稿を書き終えた1996年2月に,腹部大動脈瘤破裂で司馬さんが亡くなられました。
 “日本人は,いつも思想はそとからくるものだとおもっている"という書き出しで始まるこの第1回目を,私はちょうど留学中のニューヨークで読みました。
 “地形は風土の母であり,風土はその風土なりの人間を生む。ことに日本は並外れて山と谷の深い国,いわば谷神(こくしん)の幸う(さきわう)国である…日本は2000年来,谷住まいの国だった。谷の国にあって,ひとびとは谷川の水蒸気にまみれてくらしてきただけに,『老子』にいうことば<谷神は死せず,是を玄牝と謂ふ。玄牝の門,是を天地の根と謂ふ。綿綿として存するが如し。これを用ふれども勤きず>が,詩でも読むように感覚的にわかる"
 留学2年目で,アメリカに暮らしながら外から見た日本文化を意識しはじめた時期に,日本から送られてきていた「文藝春秋」に掲載されたこの随筆を読んだときの印象は,いまでも強く残っています。
 そして,巻末に添えられた年表との対比をみていると,司馬さんが10年あまり,この随筆をどうして書き続けたのか,その姿勢が浮かび上がってくるようです。
 “『この国のかたち』は,日本が狂したかと思えた一時期から,その夢がにわかに醒め,醒めたにもかかわらず道に迷って一歩も進めないような日本近代史上の不思議な時期,その10年間に執筆されたのである。そして,その折々に司馬遼太郎が意図して書きつけた言葉,日本人に再認識して欲しいと心から念じた言葉は,鎌倉武士の精神の礎石となった「名こそ惜しけれ」であった"(本書より)。しかも,そのときのスタンスは,“時事的事象を直接わたりあわず,しかし歴史の奥深いところから知恵を拾い集めてこの世の信頼するに足る「普通のひとびと」すなわち読者に,歴史を眺める眼で現在を眺めて考えたことをつたえたいという意志はますます固くなってきたように思われる"というものでした。
 さらに本書で取り上げられている未発表書簡からは,司馬さんの声が,じかに聞けるように思われます。
 “「司馬さんが生涯に書かれた手紙は,作品の総量を凌駕するに違いない」と考える人がいるほどだから,筆まめといった形容ではとうてい包容しきれない情熱が,手紙にはこめられていた。そこには,他者とのコミュニケーションにおいては文字表現をもっとも重んじるという信念に似たものが感じられたし,たとえ走り書きの体裁をとっていても,たんなる社交上の挨拶には決してとどまらず,受け取った人はそこに深い意味を読みとるのがつねだった"
 以前この欄で紹介した『鷗外留学始末』でも書きましたが,作家の書簡には吐露された真情や心の葛藤が,時間と空間を超えて赤裸々に訴えてくるものがあることを改めて感じられると思います。