『癌の歴史』

癌の歴史

癌の歴史

臨床看護2000年11月号 ほんのひととき 掲載
“「ガン」という言葉と「恐怖」という言葉,さらに「ガン」という言葉と「不安」という言葉は,2500年も前から一つに溶け合ってきたように思われる。ガンの歴史を描き出すことは,恐怖の歴史を描くことでもある。長い間個人的なものであった恐怖が19世紀の終わり頃に集団的なものとなり,20世紀前半に大恐怖となる歴史である。"(本書,序より)

 本書の原題を直訳すると『狂った細胞――古代から現代に至るガンを前にしての人間』で,1993年にフランスで出版され,97年に『癌の歴史』として翻訳されました。著者のピエール・ダルモンさんはフランス国立科学研究所の研究員であると同時に,歴史学者,小説家として活躍しています。医学史の中から取材した作品としては『医者と殺人者――オンブローゾと生来性犯罪者伝説』『パストゥール』などがあり,本書もその作品群に含まれます。
 本書はガンという大病に対して,有史以来,人類はどのように対応してきたかというテーマを扱ったものです。古代ローマギリシャの昔から現代に至るまでのガン概念やガン治療技術の変遷はもとより,ガンを前にして医者・学者および患者の心性,さらにはガン患者につけ込むペテンに至るまで,壮大なスケールでガンの歴史を描いています。また文学作品に現われたガンにみられる文化史的な問題も含め,約550頁の本文に加えて,参考文献や索引約50頁の大書のなかに,考えられ得るあらゆる観点から記述しています。
 “古代から現代まで,ガンは数多くのイメージや神話を吐き出すつぼであるだけでなく,多くの学説や治療法が陥ってきたつまずきの石でもある。まさに不治の病と思われたり,原因の不可解さがスフィンクスの謎にひどく似ていると思われるがゆえに,ガンは想像力をかき立て,学問研究を刺激し,生命を支配しているさまざまなメカニズムをよりよく理解しようとするための源となってきたのである。"
 古代ギリシャの昔から何世紀もの間,ガンを恐ろしい苦痛を与えてから獲物をむさぼり食うシャンクル(chancre:ラテン語のcancerから派生した「カニ」を意味する単語)と同一視してきたことが,ガン=cancerの語源になっていることはご存じの方も多いと思います。
 さらに19世紀になると,当時の既成秩序を揺るがせていた無政府主義による危機というイメージをガンにあてはめて,“いつの日か細胞が中央権力に従うことをやめ,無政府主義者となり,自分を育み養ってくれている器官がどうなろうと気にもかけずに増殖する。これらの細胞は寄生虫のように増殖して,ガン細胞になる"という説明がでてきます。
 私たちは,ガンが医学的にも社会的にも問題になったのは,つい最近のことのように思いがちです。実際,ガンの治療や疼痛を取り上げた小説や映画が出始めたのは,1960年以降です。たとえばソ連時代のノーベル賞文学者であるソルジェニーツィンガン病棟』が1968年刊行であること,しかもこの本が1962年にガンに罹ったソルジェニーツィンの奇蹟の回復を描いた自伝的作品であることのみならず,反体制派のガン患者の治癒にコミュニズムの終焉を予感させる点があることを,ダルモンさんは指摘しています。
 しかしそれまでは,欧米でもガンがタブー視されていた長い歴史があったことを,本書では繰り返し具体的な実例を取り上げて示しています。そして,以前,この欄で紹介した『痛みの文化史』(本誌第24巻第12号,1998年)において著者のモリスさんが,“痛みは神経線維や神経伝達物質についての単なる生体医学上の問題,つまり既知の固定された事柄ではなく,どのような形にも柔軟に変化していき,神秘的で,精神や考え方の影響を受けるものである"と述べていたことが,ガンにも長い歴史を通じてあてはまることを,本書を読むと痛切に感じとれます。