『フェルマーの最終定理』

フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで

フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで

 臨床看護2000年9月号 ほんのひととき 掲載

“「直角三角形の斜辺の二乗は,他の二辺の二乗の和に等しい(ピュタゴラスの定理)」このフレーズのもつ詩のような響きのおかげでピュタゴラスの定理は,何百万,何千万の人々の頭に焼きつけられている。しかし中学生にも理解出来るこの定理が,史上最強の数学者たちをつまずかせた難問を生み出すことになった。"(本書より)

 今回は数学の本を取りあげました。それだけでたぶん,多くの皆さんからは敬遠されるかもしれません。中学・高校時代のいまいましい記憶がよみがえる方も多いことと思います。ところが本書は,約300年間も世界中の数学者を悩まし続けた難問「フェルマーの最終定理」を1994年に証明した数学者アンドリュー・ワイルズを取材したイギリスBBC放送の科学ドキュメントをもとに書かれた本でありながら,まるで推理小説のような面白さがあります。
 著者のサイモン・シンは,インド系イギリス人です。大学で物理学を専攻し,その後,イギリスBBC放送の科学ドキュメントを担当し,本書をまとめたのをきっかけに作家生活に入っているそうです。
 このフェルマーの最終定理は,“xn+yn=znこの方程式はnが2より大きい場合には整数解をもたない"というもので,まず,この定理がどうして重要な難問なのか,どういう歴史的背景をもつかということから書きはじめられています。
 そしてサイモン・シンがテレビでの経験をもとに,一般の読者に科学の最前線を理解できるように記述することにさまざまな工夫をこらしていることが強く感じられます。とくに専門的な数学,そのなかでも難解な数論を扱っているにもかかわらず,数学者ワイルズがなにをやろうとし,どういう道筋をたどったかが,鮮やかにみえてきます。そして,フェルマーの最終定理の証明が数学全体にどのような意味をもつのかを,ドラマティックに描いています。
 また,少しでも学生時代に数学に興味のあった皆さんには,数学の歴史の面白さが感じられ,いままでとちがった数学という学問への理解をえることができると思います。私は中学・高校時代を通じて数学が好きでした。しかし,呪文のような難解な数式の並んだ解析学や数論の本を眺めては,とてもついていけない挫折感もしばしば味わったことを思い出しながら本書を読みすすめました。
 「フェルマーの最終定理の起源をたどれば,古代ギリシャの数学者ピュタゴラスにさかのぼり,この問題はピュタゴラスによって作られた数学の基礎と,現代数学のもっとも高度な概念とをつなぐものなのだ」ということを示すために,本書では,古代ギリシャから17世紀のフランスの数学者フェルマー,さらにフェルマーの最終定理への挑戦から生まれた数学上のテクニックや道具とこの定理にかかわったのがどんな人たちなのかを感じとれるように,多くの写真を掲載するなどの工夫が随所になされています。
 そして,「数学においては良いものであることそれ自体が,正しさの確かな手触りになる」,あるいは,「数学は人間の思考形態のなかでもっとも純粋なものの一つであり,自然という書物は数学の言葉で書かれている」と言われる理由が,読みすすむにつれてなんとなくわかるような気になってきます。
 もう一つの特徴は,訳者の青木さんがあとがきで指摘しているように,日本人数学研究者と女性数学者の取扱いです。西洋の著者は,地理的にも,言語的にも離れているせいもあって,日本人の業績をしかるべく取り上げない傾向があります。それに対して本書では,フェルマーの最終定理の証明に大きな役割を果たした数学者の谷山豊さん,志村五郎さんらを取り上げ,当時の日本の社会状況を含めていきいきと描いています。こうしたマイノリティ(人種,性別)への視線は,サイモン・シンがインド系であることにも関係しているのかもしれません。