ライシャワーの昭和史

ライシャワーの昭和史

ライシャワーの昭和史

臨床看護2010年8月号 ほんのひととき 掲載
ライシャワー本人は、外交官の日々をこう回想している。「本当に愉快だったのはかつてなかったようなスケールと方法で、教育をする機会をえたことだった。米国の閣僚や上院議員がやってきては帰っていく。新しい観点を教えて、日本はどういう状態で、どうなっていく、どうなり得るかというコンセプトを与える・・・やりがいのある活動で、いくらやりつづけても飽きなかった”(本書より)

政権交代からわずか9ヶ月で、首相がまた代わり、政治も経済も国際情勢も混迷している状況を伝える日々のニュースを見聞きしているときに、メディアが伝える表層の情報の底流にはなにがあるのだろうと、私は現代史の本をさがしていました。
新聞の書評欄でちょうどそのときに見つけた本が、本書『ライシャワーの昭和史』です。たぶん、駐日アメリカ大使として赴任していたライシャワー氏の名前に記憶があるのは、1955年生まれの私たちより年配の方たちだけかもしれません。
1961年(昭和36年)に当時のジョン・F・ケネディ合衆国大統領に駐日アメリカ大使と指名されたときに、ライシャワー氏はハーバード大学の極東言語学教授でした。
5年半の日本赴任中に、ケネディ大統領が暗殺されました。そして1964年にはライシャワー大使自身が東京の大使館敷地内で暴漢に刺傷されてかろうじて一命を取り留める事件が起きました。大使退官後には大量輸血に伴うC型肝炎に生涯苦しみながらも、日本研究家としてたくさんの人材をそだてた・・と略歴を簡単に書けば、思い出される方もいるかもしれません。
“私は(宣教師の息子として)日本に生まれたが、日本の血はなかった。だが昨日一日でたくさんの日本人の血を輸血してもらったので、こんどは混血になったような気がしている。(1964年3月の刺傷事件のあとのコメント)”
1990年に79歳で逝去されましたが、その4年前に書かれた自叙伝 『My Life Between Japan and America(日本とアメリカの間に生きて)』(1986年)を私は留学中のニューヨークで読みました。それがきっかけで、アメリカと日本、そして中国、朝鮮半島をめぐる歴史、文化を記したライシャワー氏の本を時折り読んできました。
本書の著者、パッカードさんはライシャワー駐日大使の特別補佐官(かばん持ち)を勤めてから、記者、上院議員、そして米日財団理事長を歴任した米国を代表する知日派の一人だそうです。
アメリカ人が思い描く日本は、この80年間、カレードスコープのようにめまぐるしく変わった。残虐で侵略的で軍国主義、人を平気で裏切る敵国だったのが、敗北すると従順で、茶道や菊に彩られた魅力的な国に変わり、さらに、米国の重要な権益や産業を脅かす陰険な略奪者「ジャパン・インク(日本株式会社)」となり、されにその後は、十年間の景気後退と政治腐敗にまみれて、経済が機能不全の国に変わった。
本書は、こうしたカリカチェア(戯画)とステレオタイプの裏を見通し、「本当の日本」を理解するよう、同胞のアメリカ人を導いた、一人の人間の努力をたどったものである”(本書まえがきより)
昭和の歴史を日本の学者が見る以上に客観的でかつ深く歴史的理解にたっていたライシャワー氏の言葉や予言は、本書のたまらない魅力です。
さらに日本の英語教育に言及している次の言葉には、政治・経済・文化のみならず、医療についてもあてはまることがあるようです。ボリュームのある本ですが、読み始めるときっと引き込まれると思います。

ライシャワーは、英語学習の点での日本の弱さを嘆いている。
「不幸なことに、日本人は外国語を話し、耳で聴いて理解する技能の習得が目立って不得手である。日本のことを外の世界に向けて代弁したり、他国民が日本について言ったり書いたりしていることを直接知ることができるのは、ごくわずかな男女だけである。多くの日本人は基本的に、言語の高い壁のうしろで生活しており、たいていは他国民はその声を聞くことはないし、海外から聞きたいと思うことだけしか耳を傾けない。これでは、易々とやりとりして、世界のほかの地域との真の知的接触をするというにはほど遠い」”(本書より)