ルポ がんの時代、心のケア

ルポ がんの時代、心のケア

ルポ がんの時代、心のケア

臨床看護2010年6月号 ほんのひととき 掲載
“がん患者の心には、まだまだ医療や社会の灯りが届かない暗闇が広がっている。がんは手術すれば終わり、といった間違った社会的理解も正していく必要がある。がんは切ってからが大変なんです。がん細胞がなくなっても、心は痛み続ける。その事実をもっと知ってもらいたいですね。”(本書より)

私はいまは泌尿器科医ですが、卒業したての30年前には、初期研修1年目は大学病院で一般外科・麻酔科をまわり、2年目は外科研修医として神奈川県内の一般病院に1年間勤務しました。外科は部長、医長、副医長、そして私の4人。毎日がどんなに忙しくても、一つでも多くの手術に入れることがうれしくてたまりませんでした。1年間に約400件の手術に入り、第1助手から徐々に術者も経験させてもらい、フレマン研修医から見ると神技のような3人の指導医(オーベン)の先生方の手術技術を少しでも真似て近づこうと必死でした。
毎日が戦場のような外科病棟にあって、副医長のT先生はカトリック信者で、当時まだ終末期医療・緩和医療といった概念が一般にはなかった頃から、発足したての「死の臨床」研究会に参加されていました。「cureのできない患者にはcareを考えよう」と病棟のカンファレンスで繰り返しお話しされていました。
がん治療は外科医の腕にかかっている、拡大手術こそが進行がんに対する唯一の治療と考えられていた時代に、外科医としてがん患者の看護、ケアについて取り組んでいたT先生との出会いは、がん治療に携わる医療人として私の信念とスタンスの礎になったと思っています。
今回ご紹介する本は、私が初めて緩和医療の考え方に接したその当時の新鮮な驚きを強く思い出させてくれる、丹念な取材に基づいた医療ルポです。
表紙には、みなさんのなかで緩和医療学会に参加されたことのある方には、シンポジウムや教育講演でおなじみの医師、看護師、コメディカルの方たちの笑顔の写真がならんでいます。本文中にも取材内容とともに顔写真が掲載されています。そのわけを著者の上野さんは次のように述べています。
“『がんばらない』(集英社文庫)の著者としても鎌田實先生が名誉院長の諏訪中央病院のエントランスには、5m四方のボードに、びっしり医師や看護師、薬剤師、医療事務に至るまで、全職員の笑顔でピースサインをした写真が張り巡らされている。仕事中では見ることができない、自然体の笑顔が浮かんでいる。これを巧みに使い、モザイクとして全体が院長の顔になっている”(本書より)
ルポされている精神腫瘍医、がん専門看護師、グループ療法、地域連携、終末期とうつ、家族のケアなどのことはすでに学会でもなんども聞いていて、「そんなことは、もう知っている」と思われるかもしれません。
しかし初めてがんに罹患して、しかもそれが進行がんと言われた患者さんとその家族が途方にくれているときに、本書は笑顔で迎えて入れてくれる羅針盤にもなるようにこまやかな心遣いを感じさせる構成で書かれています。
“一般病棟でも同じですが、患者さんの心を和らげるには、医師や看護師がどれだけ、患者さんと同じ人間として接するかにかかっていると言えるでしょう。話を丁寧に聞き、共感する。ホスピスでは特別なことは何もしていない。人と人が接する、このことを大事にしているだけにすぎません。今の医療現場で、忘れかけている、この気持ちが患者さんの死を安らかなものしてくれると信じています”(本書より 桜町病院ホスピス病棟の小穴先生の言葉)
さらに再読してみると、冒頭に引用されている1912年のタイタニック号が氷山に衝突した海難事故の混乱の坩堝の中で、死への恐怖に人びとが理性を失いかけていたとき、ある紳士がごった返す客船ホールで、バイオリンを弾き始め、そのやさしい音色が、恐怖におののいていた人たちに安心感を与えたというエピソードが本書のモチーフになっていることに気づかされました。
あるいは著者の上野さんは「タイタニック号の悲劇」を、日本の「医療崩壊」になぞらえて、このバイオリン弾きの紳士・淑女を探しつつ全国の医療現場をルポ取材したのではないかと思います。