白い航跡

新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)

新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)

臨床看護1997年1月号 ほんのひととき 掲載
東京慈恵会医科大学創始者である高木兼寛先生の一生を描いた歴史小説です。この欄の第3回に紹介した『胡蝶の夢』では江戸縛幕の蘭方医学を描いていましたが、吉村さんの『白い航跡』では明治維新以降の日本近代医学の勃興時期を、薩摩藩日向国(現・宮崎県高岡町)の大工の倅として生まれた兼寛を中心にして史実に基づいて物語が進んでいきます。
20歳の兼寛が1868年の戊辰戦争薩摩藩付きの医者として会津藩との戦いに従軍して、戦場での蘭方医・関寛齋らの西洋医学の外科的処置を目の当たりにしてときの衝撃から話が始まります。
この戦いのあとで、兼寛は同郷の薩摩藩の医師・石神良策を通じてイギリス医師ウイリスと出会います。ウイリスは幕末の戦場に従軍していた各藩の医家に大きな衝撃を与えた外科医であり、明治政府から医学医療の充実をはかるために国の医学教育の指導者として嘱託される予定の人物でした。
それに対して当時欧米諸国の中でもっとも科学の全分野が進んだ国であったドイツを規範とする意見が急遽主流を占め、大学東校(後の東京大学医学部)にはドイツ人医師ミュレル(外科)、ホフマン(内科)が事実上の大学および陸軍の医学指導者として招かれました。
そのためウイリスは薩摩藩の計らいで、鹿児島で医学院を開設してイギリス医学を教えることになりました。その後、石神が海軍病院院長になり、以来海軍はウイリス門下生である兼寛らを中心にしてイギリス医学を主流とするようになりました。
明治8年に、兼寛はイギリスのセント・トーマス病院に留学しました。帰国後、彼は当時の日本に蔓延していた脚気、とくに海軍においても多数の死亡者を出すほどに深刻化していた脚気について、イギリスで学んだ疫学的な食事栄養学調査を行い、米食に片寄った兵食制度に原因があることを突き止めました。
一方、細菌学をドイツで学んだ陸軍医部および東大教授らは脚気の原因は細菌感染と主張し、兼寛ら海軍医部との間で激しい論争が行われました。その論客の急先鋒が森鷗外森林太郎)であり、陸軍軍医として鷗外の頑なで意外な姿が本書に描かれています。
この脚気原因論争を通じて、吉村さんはドイツ・イギリス医学の特徴を兼寛の言葉として簡潔に述べています。
「兼寛は広く欧米の医学の長所を取り入れるべきで、一国のみの医学に傾注するのは好ましくないとも考えていた。ドイツの基礎医学はとかく学問研究に走る嫌いがあり、病気治療を直接の目的とするイギリスの実証主義を基本とする臨床医学が実際の診療には向いていると信じていた。」
下巻では、医学のみならず看護教育の創始者としての兼寛の姿が描かれています。セント・トーマス病院には兼寛が留学した15年前の1860年に、フローレンス・ナイチンゲールによって創設された看護学校がありました。そこで兼寛が眼にしたことを吉村さんは描いています。
“兼寛は病院内で看護婦がきわめて重要な存在になっているのを感じた。医師は男たちばかりで彼女たちは女の特性でこまやかな神経を働かせて病人の看護に当たる。手術室でも彼女たちの細心な協力によって外科医たちはは沈着に手術をすることができた。病人たちが温かく世話をしてくれる彼女たちに涙を浮かべて感謝の言葉を口にするのを何度も目にした。”(本書より)
そして帰国後は、兼寛がイギリス医学教育を目指して設立した成医会共立東京病院(後の東京慈恵医院、慈恵医大の前身)に、明治18年に日本ではじめての看護婦養成機関を設立して、イギリス人看護婦ミス・リードによる教育を始めました。
この小説を再読してみて、兼寛を育てた度量の大きい恩師たちの教育の力、人と人とのつながりの仲で形成された日本の医療制度の黎明期の姿が史実から浮かび上がってくるような印象を受けました。