東西/南北考 いくつもの日本へ

東西/南北考―いくつもの日本へ (岩波新書)

東西/南北考―いくつもの日本へ (岩波新書)

臨床看護2001年7月号 ほんのひととき 掲載
“日本人の思考は「東西」に強く,「南北」に弱い。そこでは,ほとんどの問題は「南北」論としてではなく,「東西」論として現われ,しかも,それはつねに文化上の「都鄙(とひ)」の問題という装いを凝らす(本書より)"

 書名をみて副題を見落とすと,「麻雀の本?」と勘違いされるかもしれません。
 “東西から南北へ視点を転換することで多様な日本の姿が浮かび上がる。「ひとつの日本」という歴史認識のほころびを起点に,縄文以来,北海道・東北から奄美・沖縄へと繋がる南北を軸とした「いくつもの日本」の歴史,文化的な重層性をたどる。あらたな列島の民族史を切り拓く"という大きなテーマを添ってわかりやすく,簡潔な新書判にまとめたのが本書です。
 著者の赤坂憲雄さんは,民族学を専門とする東北芸術工科大学教授で,数年前から新しい視点にたって「東北学」を提唱しています。東北地方の読者の方には申し訳ありませんが,「いまさら,なんで東北学?」と思われる方も多いと思います。
 赤坂さんは,自論の展開にアンチテーゼとして『遠野物語』の著者である柳田国男をたびたび取り上げます。
 “柳田国男は,昭和4年,あるラジオ放送を通じた講演のなかで,こう語っていた,『遠野物語』には東北地方に固有の文化は何一つ見いだされない,それはみな,日本文化の地域的な偏差にすぎない,と。ひとつの東北は西に向かう,ひたすら西を欲望する。西にからめ取られる。しかし,東北の村々を舞台に野辺歩きを重ねてきた実感からすれば,ひとつの東北は幻想である。東北の文化は,北と南において,海と山においてまた太平洋側と日本海側において,じつに多様な貌を見せる(本書より)"
 この流れに影響されて,私も東北地方で学会がある折には,できるだけ自動車で旅行して回っています。司馬遼太郎さんの『街道を行く』などの紀行記を読みながらののんびりとした旅では,新幹線で駆けつけるのと違った,豊かで新鮮な印象を旅の先々でもつことができます。
 赤坂さんは,こうした「東北学」での実践をもとに,本書では,さらに「いくつもの日本」を提唱しています。そこには民族学歴史学という学問の流れが,時代の流れと相乗効果をもたらしているようです。
 “わたしたちはいま,90年代のバブルの崩壊を経て,ようやく戦後という時代,そして,高度経済成長期と呼ばれる時代の意味を,その根底から問うことができるようになったのかもしれない。この半世紀の間に,いったい何が起こったのか,何が,どのように変わったのか,変わらなかったのか。ともあれ,列島の社会・文化的な均質化が,戦後半世紀の間にほとんど暴力的に押し進められてきたことだけは,たやすく確認しうるはずだ(本書より)"
 以前,この連載(第27巻第3号,p. 408)で紹介した歴史学者網野善彦さんと同じ起点に立っていると思います。
 “「ひとつの日本」への欲望に支えられた歴史はさまざまなかたちで影響を与え,ゆがんだ社会現象を生み出している。沖縄人・アイヌ人・朝鮮人にたいする屈折した差別,また被差別部落民を異民族視するような偏見といったものは,単一の日本民族,古代以来単一な日本国家を前提とする歴史像に根拠をもっている(本書より)"
 情熱のこもったこの啓蒙書を通じて,「知の巨大な地殻変動」ともいえる大きな学問の進歩を感じ取れると思います。

 “日本各地を歩いているとこれまで自分が考えていた日本という国と,日本人という民族の姿が,ずいぶん違って見えるようになってきた。日本人にもいろいろあるなあ,というのが実感である。方言が地方単位ではなく,実際には村の中でも各集落ごとに異なるように日本人のこころも,日本人の暮らしも絶対にひとくくりにはできないこともわかってきた。専門の研究家にとっての常識が,なぜ世間一般には見えてこないのだろうか(五木寛之)"